20 調租を免ずるの詔 元明天皇(第四十三代)

調租ちょうそめんずるのみことのり和銅二年十月 續日本紀

比者遷都易邑搖動百姓。雖加鎭撫未能安堵。毎念於此朕甚愍焉。宜當年調租竝悉免之。

【謹譯】比者このごろみやこうつゆうへ、百姓ひゃくせい搖動ようどうす。鎭撫ちんぶくわふといえども、いま安堵あんどするあたはず。これおもごとに、ちんはなはいたむ。よろしく當年とうねん調ちょうならびことごとこれめんずべし。

【字句謹解】◯都を遷し 和銅わどう二年十二月、藤原宮ふじはらのみや(大和國高市郡鴨公村高殿)より平城宮(大和國生駒郡都跡村)に遷都せんとせられしを指す。ほ詳しくは〔註一〕を見よ ◯邑を易へ ゆうは土地又はみやこ。は大なるみやこ、ゆうは小なるみやこ。ここではみやこをかへての意 ◯搖動す 動搖どうようすること。うごかしゆるがす、さわがすこと ◯鎭撫 なでしずめる。しづめやすんずる、おさへなぐさめる ◯安堵 かきてんじて居所すまいの意。安堵あんどやすんずる意で、すなわ居所すまいやすんじ住む、安心すること ◯愍む あはれみ痛ましく思ふ ◯調・租 調ちょう正丁せいてい各一にんから、その土地の狀況じょうきょうしたが定規ていき布帛ふはくまたはそのの物をかんに納めしめしもの、みつぎ。田畝でんぽ賦課ぶ かしてその收穫高しゅうかくだか幾分いくぶん徵收ちょうしゅうせしもの、田租でんそほ詳しくは〔註二〕を見よ。

〔註一〕都を遷し このみことのり和銅わどう二年十月に發布はっぷされて居るが、天皇が正式に平城宮ならのみや遷幸せんこうされたのは、同年十二月である。これより和銅わどう元年(皇紀一三六八年)二月、天皇、都を平城な らうつさんとし給ひ(當時天皇には大和國高市郡鴨公村なる藤原宮にいませり)みことのりしてのたまはく

 方今ほうこん平城な らの地、四禽しきんかなひ、三ざんちんし、龜筮きぜいならしたがふ。よろしく都邑とゆうつべし。

と。九月、菅原すがはら(大和國生駒郡伏見村大字菅原)に行幸ぎょうこうあり、ついで平城な ら巡幸じゅんこうして、その地形・民情みんじょうたまひ、阿倍宿奈麻呂あべのすくなまろ多治比池守たじひのいけもりをもつてぞう平城宮ならのみや司長官つかさちょうかんとなし、次官・大匠たいしょう判官はんがん主典しゅてん等を任じ、十月使つかい大神宮だいじんぐうたてまつつて、平城宮ならのみや造營ぞうえいさまを告げまつらしめ、十一月、菅原すがはらの民家をうつし、十二月をもつて地鎭祭ぢちんさいを行はせられた。翌二年にいたり、新宮しんぐうの工事もかなり進捗しんちょくしたらしく、八月、車駕しゃが平城宮ならのみや行幸ぎょうこう、九月、更に新京しんきょう百姓ひゃくせい巡撫じゅんぶし、物を造宮ぞうぐう將領しょうりょう以上にたまはり、ついで十月このみことのりを下してあまねく國民の調ちょうを免じたまうたのである。かくていよいよ同年十二月正式に平城宮ならのみや遷幸せんこうあらせられた。翌三年正月、天皇には新皇居なる平城宮ならのみや大極殿だいごくでんにおいて朝賀ちょうがを受け給ひ、三月に至つて全く平城な ら遷都せんとを終らせられた。右の次第であるから、平城な ら奠都てんとの完了は和銅わどう三年(皇紀一三七〇年)三月であるが、翌四年九月のちょくに『今、宮垣みやかきいまだ成らず、防守ぼうしゅそなはらず』とあり、ほ五年正月、みことのりして諸國の役民えきみんきょうかえるものを撫養ぶよう賑恤しんじゅつしてられるのを見れば、おそらく宮城きゅうじょう落成らくせい和銅わどう四年の年末ごろかと思はれる。

 ついでに「奈良朝ならちょう」について一ごんするが、この和銅わどう三年の奠都てんと後、つぎの元正げんしょう天皇まではここにみやこせられたが、そのつぎの聖武しょうむ天皇は、山城やましろ恭仁宮くにのみや攝津せっつ難波なにわ等に遷都せんとあり、稱德しょうとく天皇に至つては、河內かわち由義宮ゆげのみやにいませしこともあるが、いづれもみな一時的のことで、桓武かんむ天皇延曆えんりゃく三年、長岡ながおか(山城國乙訓郡向日町)遷都までは、大體だいたい帝京ていきょうは、奈良(平城)であつた。すなわ元明げんみょう天皇和銅わどう三年から元正げんしょう聖武しょうむ孝謙こうけん淳仁じゅんにん稱德しょうとく光仁こうにんの六代をて、桓武かんむ天皇延曆えんりゃく三年(皇紀一四四四年)まで、前後八代七十五年間を奈良朝とよぶのが至當しとうで、通常、奈良朝七代といつて桓武かんむ天皇を省くのは、精確せいかくではない。ほ奈良朝時代の文化に至つては、太宰だざい少貳しょうに小野老朝臣おののおゆあそんはゆる

 あをによし奈良の都は咲く花のにほふが如くいまさかりなり

の歌によつて、しのぶことが出來る。

〔註二〕調・租 調とはきぬあしぎぬ綿わたぬの等その地方地方の物產ぶっさんを納めしむる物稅ぶつぜいである。大寶令たいほうりょうによれば、正丁せいていにんにつき絹または絁は八尺五寸、美濃み のの絁は六尺五寸、いとならば八りょう綿わたならば一きん、布ならば二じょう六尺を納める規定である。次丁じてい中男ちゅうなん調ちょうを納むる義務あり。次丁じていは二にんにて正丁せいていにん分、中男ちゅうなんは四人にて正丁せいていにん分の調ちょうを納める。調ちょうは一ぐんごとに取りまとめ、絹・絁・布等は、その兩端りょうたんに、また絲や綿などはその包み紙にこくぐん戸主こしゅの姓名年月日を記し、各々おのおの國印こくいんしてだす規定であつた。

 つぎにとはかんからたまはつた口分田くぶんでんたいして納付する田租でんそのことである。大寶令たいほうりょうによれば、男女生れて六歳になると、貴賤きせんの別なく、男子には一にんたん、女子にはその三分の二の口分田くぶんでんきゅうせられた。これにたいしては、一たんにつき二そくを納めしめ、九月中旬から十一月三十日なでに納めおわらしむる規定であつた。大化たいか以前の租法そほうは、熟田じゅくでん五十しろに、穫米とりこめ五十そく租稻そとうそくであつた。ほ第十九の〔註二〕口分田を參照せよ。

【大意謹述】このごろ都を大和國やまとのくに藤原宮ふじはらのみやから、この平城な らに移して土地をへ、人民をはなはだ騒がせた。そこで民の心をしずやすんじようとつとめたが、まだ人民を安心させることが出來ない。それを考へるごとに、はなはだ民を痛ましく思ふ。それで今年こんねん田租でんそ調ちょうとは、いづれも全部これを免除するやうにせよ。

【備考】思ふに古來、歷朝れきちょう遷都せんと改元かいげん等に際しては、あまねく大赦たいしゃ賑恤しんじゅつ等の恩典おんてんを下して、民とよろこびをわかちたまふのが普通であつた。明治天皇も東京奠都てんとに際し、明治元年九月八日、大赦令たいしゃれい發布はっぷせられ、また東京市民一同に、いはゆる「おふるまひ酒」を下され、ほ親しく奠都てんと祝賀かいにも行幸ぎょうこうあそばされ、市民とそのよろこびを共にせられたのであつた。この元明げんみょう天皇詔勅ごしょうちょくも、奈良奠都てんとに際し、新京しんきょうの民が、いまだそのやすんじないのを御軫念ごしんねんあらせられて下されたもので、特に調ちょうを全免して、民のを救ひたまひし御仁慈ごじんじのほどをはいすべきである。

 ほ古來、歷代れきだい天皇御卽位ごそくいごとに、多くは先帝の舊都きゅうとにとどまり給はず、遷都せんとせられたのに就ては、汚穢おわいむ風習から、先帝崩御ほうぎょの地をみて、新たに都を建て給うたのであるとのせつもある。しかし諸事しょじ簡素かんそであつた上古じょうこ時代は別として、大化たいか改新かいしん以來は、中央集權しゅうけんの制度が確立すると共に、八しょうかんせい大いに備はり、中央政府の規模も從前じゅうぜんとは比較できないほどに大規模おおきぼ複雜ふくざつとなつたので、したがつて遷都せんと簡單かんたんには行はれなくなつた。ことに大陸との外交關係かんけいが起るに及び、廣大こうだいなる帝都ていとを立つるの必要に迫られ、遣唐使けんとうし留學生りゅうがくせい學問僧がくもんそうなどが歸朝きちょうして、支那し なの帝都の有樣ありさまなどを述ぶるものもあり、實際じっさいにまたわが歷代れきだい皇都こうとが、長安ちょうあんじょうし、あまりに見劣りのすることは、わが帝室ていしつ御威嚴ごいげんにもかかはることでもあり、いきお支那し なにならつて、完備せる新帝都を起さねばならなくなつたのである。かく考へると、奈良の都の起つたのは、一ちょうせきゆえではなく、遠くは推古すいこ天皇以來、近くは大化の改新以來の天下の趨勢すうせいが、おのづからしからしめたものといふべく、元明げんみょう天皇に至つて、はじめてこの難事業が、斷行だんこう完成された次第である。

ほ『平城な ら遷都せんとみことのり』は次の如くで、これによつて大御心おおみこころのほどをはいすることが出來る。

 ちんつつしみて上玄じょうげんけ、宇内うだい君臨くんりんし、菲薄ひはくとくもって、紫宮しきゅうたっときる。つね以爲お もへらく、これすものはろうし、これるものはいつす。遷都せんとのことは、必ずいまいとまあらざるなりと。しかるに王公おうこう大臣おおおみみな言ふ。往古おうこより以降このかた、近代に至るまで、はかり星をみて、宮室きゅうしつもといおこし、ぼくし、つちそうして、帝皇ていおうゆうつ。永鼎えいていもといを定め、無窮むきゅうぎょうかたくすることここにあらんと。衆議しゅうぎしのびがたく、詞情しじょう深切しんせつなり。しかればすなわ京師けいしは百かんにして、四かいするところなり。ただちんにんひと逸豫いつよせんや。いやしくもものあらば、それとおざくけんや。昔、殷王いんおう、五たびうつりて、中興ちゅうこうごうを受け、周后しゅうこう、三たび定めて、太平たいへいしょういたせり。やすんじてもってその久安きゅうあんたくうつさん。方今ほうこん平城な らの地は、四禽しきんかなひ、三ざんちんす。龜筮きぜいならびしたがふ。よろしく都邑とゆうつべし。よろしく營構えいこうすべきのは、すべからく事條じじょうしたがひてそうすべし。また秋收しゅうしゅうちてのち路橋ろきょうつくらしめよ。子來しらい勞擾ろうじょういたすことなかれ。制度せいどよろしきのちをしてくわへざらしめよ。