19 王公諸臣の山澤を占むるを禁ずるの詔 文武天皇(第四十二代)

王公おうこう諸臣しょしん山澤さんたくむるをきんずるのみことのり慶雲三年三月 續日本紀

軒冕之群受代耕之祿。有秩之類无妨於民農。故召伯所以憩甘棠。公休由其拔園葵。頃者王公諸臣多占山澤。不事耕種。競懷貪婪。空妨地利。若有百姓採柴草者仍奪其器令大辛苦。加以被賜地實止有一二畝。由是踰峰跨谷浪爲境界。自今以後不得更然。但氏々祖墓及百姓宅邊栽樹爲林。幷周二三十許歩不在禁限。

【謹譯】軒冕けんべんむれ代耕だいこう祿ろくけ、有秩ゆうちつたぐいたみのうさまたぐるし。ゆえ召伯しょうはく甘棠かんとういこひ、公休こうきゅうれにつて園葵えんき所以ゆえんなり。頃者このごろ王公おうこう諸臣しょしんおお山澤さんたくめ、耕種こうしゅこととせず、きそひて貪婪たんらんいだき、むなしくさまたぐ。百姓ひゃくせいにして柴草しばくさものあれば、りてうばひ、おおい辛苦しんくせしむ。しかのみならずたまはれるじつただ一二たもつのみ。これりてみねたにまたがり、みだりに境界きょうかいす。いまより以後い ごさらしかるをざれ。ただ氏々し し祖墓そ ぼおよ百姓ひゃくせいたくほとりは、ゑてはやしし、ならびめぐり二三十許歩ぶばかりは、きんかぎりにらず。

【字句謹解】◯軒冕の群 けん大夫たいふ以上の人の乘用車じょうようしゃべん貴人きじんのかんむり。てんじて軒冕けんべんとうとき位、高位こうい高官こうかんの人。漢書かんじょ楊雄傳ようゆうでんに『俄雜衣裳』とあり。むれはむれ。すなわ高位こうい高官こうかんにある人々の意 ◯代耕 他人の耕作したものの意、すなわ官吏かんりは農民が代つて耕す所の祿ろくを受くるをいふ。禮記らいき王制篇おうせいへんに『諸侯之下士視上農夫、祿足以也』とあり ◯祿 ふち。給與きゅうよ俸祿ほうろく、かづけもの ◯有秩の類 秩祿ちつろくつ人々。すなわ扶持ふ ちをもつ人々。官吏かんりをいふ ◯ 古字こ じ、なし ◯召伯は甘棠に憩ひ しゅう召公しょうこう善政ぜんせいに感じてのやどりし甘棠こりんごの樹を大切にせし故事こ じより出づ(甘棠之愛)、借りて明君めいくん聖王せいおう思慕し ぼする情の切なるにいふ。召伯しょうはく百姓ひゃくせい煩勞はんろうさせないために、甘棠こりんごの下にやどり休息して、男女のうったえをきいたので、民そのとくを慕ひ、その樹をけいしたのである。詩經しきょう召南篇しょうなんへんに『蔽芾、勿剪勿伐、所茇』とあり ◯公休園葵を拔く 公休こうきゅう公儀休こうぎきゅうの略。園葵えんきはあふひに似たる野菜。公儀休こうぎきゅうが民と利をあらそはないために、みずか園葵えんきいて捨てた故事こ じに出づ。てんじて官吏かんり淸廉せいれんふ。くわしくは〔註一〕を參照せよ ◯王公 おうは皇族の男子にして親王しんのう宣下せんげなきかたこう執政しっせいの大臣 ◯山澤 山野さんや・河川・沼地・田畑などをいふ ◯貪婪 たん金錢きんせんを、らんは食物をむさぼること。てんじていたく物をほしがる意、よくのきはめて深きこと ◯賜はれる地 班田はんでん收授しゅうじゅ法によつてたまはれる地、すなわ口分田くぶんでんほ〔註二〕を參照せよ ◯ 地積ちせき單位たんい、今は一たんの十分の一すなわち三十をいふ ◯境界 土地のさかひ ◯祖墓 先祖のはか、墓地。

〔註一〕公休園葵を拔く 史記し き百十九卷循吏じゅんり列傳れつでん公儀休こうぎきゅうくだりに次の如く見ゆ。

 公儀休者。魯博士也。以高弟爲魯相。奉法循理。無所變更。百官自正。使祿。客有遺相魚者。相不受。客曰。聞君嗜魚。遺君魚。何故不受也。相曰。以嗜魚故不受也。今爲相。能自給魚。今受魚而免。誰復給我魚者。吾故不受也。食茹而美。。見其家織布好。而疾出其家婦。燔其機。云欲令農士工女安所讎其貨乎。

 しょ康煕こうき字典じてんに『食菜曰』とあれば、あおいを言つたものであらう。ほ「あおい」については同じく康煕こうき字典じてんに『菜名。詩豳風、七月烹葵及菽。儀禮士虞禮。夏秋用生葵。王禎農書。葵陽草也。爲百菜之主。備四時之饌』云々うんぬんとある。これによつてあおいが、主要な野菜であることを知りうる。要するに本文の『公休こうきゅう園葵えんきく』の意は、本來、野菜を植ゑるのは農夫のうふの業務であるから、かんにあり祿ろくむものがこれをなす時はただに民業みんぎょうを害するばかりでなく、官吏かんりとして貪婪たんらんに似て淸廉せいれんを害するからよろしくないとて、公儀休こうぎきゅうみずか園葵えんきいて捨てたのである。その故事こ じを指す。

〔註二〕口分田 本文の『たまはれる地』とは、班田はんでん收授しゅうじゅほうによつてたまはれる口分田くぶんでんを指す。孝德こうとく天皇大化たいか改新かいしんみことのりその三に『初めて戸籍・計帳けいちょう班田はんでん收授しゅうじゅの法を造る』とある。六年ごとに戸籍をしらべ、人民一般に口分田くぶんでんたまうたのである。すなわち男女六歳になれば、男には一人につき二たん(今の二段四畝)、女にはその三分の二をたまうた。これが班田はんでんである。この田からいねそく(今の升で二石二升九合)をて、その中から四そく(八升九合)をかん上納じょうのうし、その人が死ぬと田は官に還附かんぷした。これが收授しゅうじゅである。この制度は、人民に土地の私有を禁じ、財產を等分に分配する法であつたが、人間には知識・力量・性質等の差異さ いがある上に、官吏かんり失政しっせい豪族ごうぞく專横せんおうとのために漸次ぜんじ土地兼幷けんぺい主義が行はれるに及び、いつしか官田かんでんすたれて、折角せっかくのこの制度も承平しょうへい天慶てんぎょうらん後にははいされるに至つた。ほ第二十の〔註二〕の項を參照せよ。

【大意謹述】高い位にある人は、他人の耕作したものを祿ふちとしてもらふのであるから、古來こらいつつしみぶかい官吏かんりは、決して人民の農作を妨害するやうなことはなかつた。すなわしゅう召公しょうこうは、農民の仕事の邪魔をせぬために、みずか甘棠こりんごの下に行つて休息し、そこで男女のうったえをきいたので、民がそのとくしたひ、その樹をうやまつたといふことであるし、また公儀休こうぎきゅうは、農民の耕作を妨げないやうに、みずか園葵えんきいててたといふことである。しかるにこのごろ、聞くところによれば、諸王や公卿く げその他の諸役人たちは、ほしいままに山野さんや・河川・沼地・田畑などを獨占どくせんし、民の耕作農事のうじの邪魔をして、ただ自分一個の欲望をむさぼり、地の利を妨げ、わづかに百姓ひゃくせいが柴や草などをとつても、それを口實こうじつにしてその器具を奪ひ取つて、百姓ひゃくせいを大いに辛苦しんくさせてゐるといふことである。そればかりでなく、班田はんでんほうによつてかんからたまわつた口分田くぶんでんさへも、百姓ひゃくせいはわづかにその一二をもつて居るにすぎないといふことである。そこで今後は、峰を越え谷にまたがり、勝手に境界をこしらへたりなどしてはならぬ。ただし先祖の墓地や人民の家屋のほとりには、樹木じゅもくをうゑて林とするやうに、家のまはり二三十ばかりは、この禁制の限りではない。

【備考】慶雲けいうん元年凶作きょうさくのため、天皇には民の窮乏きゅうぼう御軫念ごしんねんあらせられ、二年四月、五大官寺かんじをして禳災じょうさい救民きゅうみん祈禱きとうをなさしめ、ようなかばを減じたまふたが、更に翌三年二月、みことのりして役民えきみん調庸ちょうようを免じ、民のを除かうとせられた。しかしほ民の憂色ゆうしょくを除くことが出來なかつたので、これは王公諸臣や豪族が、ほしいままに天下の山澤さんたく田圃でんぽ獨占どくせんして、農耕の業をさまたぐるからであるとなし、慶雲けいうん三年三月このみことのりはっせられ、おごそかに王公諸臣や豪族が、ほしいままに山澤さんたく獨占どくせんすることの不都合なるを彈呵だんかせられたのである。これは、時弊じへいの根源に向つて巨斧きょふを加へたまうた次第で、ために窮民きゅうみん蘇生そせいの思ひをして、天皇御仁慈ごじんじをたたへたてまつつた。

 しかるに、天皇には、その翌四年二月、みことのりして萬代ばんだい不易ふえき帝都ていとを定めたまふべく、群臣ぐんしんに命じてこれをせしめられたのであるが、いまはたされざるに御病おんやまいかからせられ、六月十五日御齡おんよわいわずかに二十五歳にして、遂に藤原宮ふじはらのみやほうじ給うた。思ふに天皇には、御幼冲ごようちゅうにして御位みくらいがせたまひ、御在位ございい十一年間、施政しせいはなはだ多く、しかも有爲ゆういのことのみであつた。加ふるに資性しせい仁慈じんじに富ませたまひ、しばしば民の勞苦ろうくを察して田租でんそたまひ、課役かえきを免じ、諸國の天災にかかるや、老幼ろうよう窮民きゅうみんを救はせられ、疾病しっぺいの流行に際しては、醫藥いやく金錢きんせんたまひ、またきよきたっとび、こうすすめたまふ等、その御仁政ごじんせい枚擧まいきょいとまがないほどであるが、またようにして諸學に通じ、わけて詩をくし給ひ、御製ぎょせいがある。

 年雖足戴冕。智不敢垂裳。朕常夙夜念。何以拙心匡。猶不師往古。何救元首望。然毌三絶務。且欲臨短章。