18 災を禳ひ民を救ふの詔 文武天皇(第四十二代)

わざわいはらたみすくふのみことのり慶雲二年四月 續日本紀

朕以菲薄之躬託于王公之上。不能德感上天仁及黎庶。遂令陰陽錯謬水旱失時年榖不登民多菜色。毎念於此惻怛於心。宜令五大寺讀金光妙經。爲救民苦天下諸國勿收今年擧稅之利。幷減庸半。

【謹譯】ちん菲薄ひはくもって、王公おうこううえたくし、とく上天じょうてんかんじ、じん黎庶れいしょおよぶことあたはず。つい陰陽おんよう錯謬さくびょうし、水旱すいかんときうしなひ、年穀ねんこくみのらず、たみ菜色さいしょくおおからしむ。これおもごとに、こころ惻怛そくだつす。よろしく五大寺だいじをして、金光明こんこうみょうきょうましめ、民苦みんくすくはせ、天下てんか諸國しょこく今年こんねん擧稅こぜいおさむることく、ならびようなかばげんずべし。

【字句謹解】◯菲薄の躬 はくともにうすし、とくうすき意。に同じ ◯王公 おうとは皇族の男子にして、親王しんのう宣下せんげなきかた武帝てんむていりょうによれば諸王を十二階に、諸臣を四十八階にわかつ。こう公卿く げにて執政しっせいの大臣 ◯託し よせる、たよる、まかせる ◯ 心正しくおこなひ善なること。道にかなひ義にしたがふこと。正義、善道ぜんどう人を敬服けいふくせしむる力 ◯上天 天神あまつかみ、天の神。地神ちじん五代の前にわが國をしろしめしし七代の天神あまつかみおよびその他の神々の意 ◯黎庶 もろもろの民、國民。黎元れいげん黎首れいしゅ黎蒸れいじょう黎民れいみんいづれも同義 ◯陰陽錯謬 陰陽いんようは天候氣象および四時しいじの氣候、錯謬さくびょうはまちがひ順當じゅんとうでないこと ◯水旱時を失ひ すいは雨、降雨。かんはひでり、旱魃かんばつ。雨やひでりが、順序よく來ず ◯菜色 食料足らずしておとろへたる顏色。禮記らいき王制篇おうせいへんに『雖有凶旱水溢、民無』とあり、ちゅうに『飢而食菜、則色病故云』と見ゆ ◯惻怛す あはれみいたむこと ◯五大寺 五大官寺かんじ京畿けいきにおける五箇の官寺かんじすなわ法隆寺ほうりゅうじ飛鳥あすか大寺おおでら高市たけち大寺おおでら藥師寺やくしじ弘福寺ぐふくじをいふか ◯金光明經 つぶさには金光明こんこうみょう最勝王經さいしょうおうきょうといひ、中印度ちゅういんどどんせんやくかんずい寶貴ほうきやく八卷、とう義淨ぎじょうやく十卷の三やくがあり、天台てんだい大師だいしやくもあつて古くより行はる。このきょう流布る ふしたわけは、四天王てんのうを初めとして、一切の天神てんしん地祇ち ぎその國を守り、災厄さいやくはらひ、人に豐樂ほうらくあたへるといふので、聖武しょうむ天皇はこのきょうによつて國分寺こくぶんじを置き、金光明こんこうみょう四天王護國寺ごこくじしょうし、傳敎でんぎょう大師だいしはこのきょう法華ほっけ仁王にんのうの二きょうを加へて、これを鎭護ちんご國家の三部きょうとしたからである。また日蓮にちれん上人しょうにん安國論あんこくろんにこれを引用して、立正りっしょう安國あんこくを主張した ◯擧稅 出擧すいこせし稅をいふ。出擧すいことはむかし官府かんぷ又は私人しじんが、稻榖とうこく錢貨せんかを貸し出して利息をおさめしめしものをいふ。

〔註一〕大寶律・令

(1)大寶律たいほうりつ 近江おうみ朝廷のりょうおよび大寶たいほうりつりょういつしてつたはらないので、詳細を知ることは出來ない。世にいはゆる大寶律たいほうりつすなわ養老律ようろうりつは、十卷十二篇から成るものである。その篇名は第一名例めいれい律、第二衞禁えいきん律、第三職制しきせい律、第四戸婚ここん律、第五厩庫く こ律、第六檀興だんこう律、第七賊盗ぞくとう律、第八鬪訟とうしょう律、第九詐僞さ ぎ律、第十ざつ律、第十一捕亡ほもう律、第十二斷獄だんごく律これである。このりつは一時は全部逸失いっしつしたが、これを註釋ちゅうしゃくせるなる書があり、そのうち名例めいれい賊盗ぞくとう職制しきせい衞禁えいきんの四篇だけ現代までつたわつて居る(世にこれを律疏殘篇といふ)。もっと文政ぶんせいの頃石原いしはら正明まさあきあらわせるなる書があり、これと前述の律疏りっそ殘篇ぜんぺんと、とうりつ註釋ちゅうしゃくせるとを對校たいこうすれば、大寶律たいほうりつの大要を知ることが出來る。けだ大寶律たいほうりつ大體だいたい唐制を模倣もほうせるものであるからである。

(2)大寶令たいほうりょう 大寶令たいほうりょうりつとはことなり、わが國古來こらい慣例かんれいもといとせるものであるから、とうりょうし大いにことなつて居る。大寶令たいほうりょうすなわ養老令ようろうりょうは十卷三十篇より成る。第一官位かんい令、第二職員しきいん令、第三後宮こうきゅう職員しきいん令、第四東宮とうぐう職員しきいん令、第五家令かれい職員しきいん令、第六神祇じんぎ令、第七僧尼そうに令、第八令、第九でん令、第十賦役ぶやく令、第十一がく令、第十二選叙せんじょ令、第十三繼嗣けいし令、第十四考課こうか令、第十五祿ろく令、第十六宮衞きゅうえい令、第十七軍防ぐんぼう令、第十八儀制ぎせい令、第十九衣服いふく令、第二十營繕えいぜん令、第二十一公式くしき令、第二十二倉庫そうこ令、第二十三厩牧くもく令、第二十四醫疾いしつ令、第二十五假寧けにょう令、第二十六喪葬そうそう令、第二十七關市かんし令、第二十八捕亡ほもう令、第二十九ごく令、第三十ざつ令これである。このりょうりつと同じく、その本文ほんもんのみの書はつたはつてゐないが、「令義解りょうのぎげ」(天長十年淸原夏野等が淳和天皇の勅を奉じて令を解釋せるもの)といふ書は現存して居る。

【大意謹述】ちんとくうすくとぼしき身をもつてつつしんで天子の位にいたが、その德は天神あまつかみを感動せしむることが出來ず、またそのじんは國民に及ぼすことが出來ず、したがつて天のとがめによるものか、近年とかく氣候が不順で、榖物がよくみのらず、食料不足のためにつひに民の顏色を衰へさせるに至つた。これを思ふ毎に、じつにいたましい次第であると悲しまざるをえない。そこで五大官寺かんじをして金光明こんこうみょうきょうませ、佛天ぶってん加護か ごによつて民の苦みを救はせ、また諸國はいづれも、今年こんねん出擧すいこの利息をおさむることなく、みつぎも半分に減ずるやうにせよ。

【備考】天皇御年おんとし十五歳にして御位みくらいがせたまひ、在位十一年間、施政しせいはなはだ多く、こと大寶律たいほうりつりょう(〔註一〕を參照せよ)を定めたまひしことは、特筆すべき御事蹟ごじせきである。これより天武てんむ天皇は、大化たいか改新かいしんの制を更に改修せられ持統じとう天皇ちょうこれを諸司にわかたれたが、いまだ完全といふ事を得なかつた。天皇ここに著眼ちゃくがんさせたまひ、忍壁おさかべ親王しんのう藤原ふじはら不比等ふ ひ とに命じて、これを增訂ぞうていせしめ、りつ六卷・りょう十一卷とし、御宇ぎょうの六年完成、大寶たいほう二年はじめて天下に頒布はんぷせられた。つ博士を諸國に遣はして新令しんりょうこうぜしめ、孜々し しとして全國かく一の制度を實行じっこうされたのでここにわが國の法典は、全く整備するに至つた。

 ついで慶雲けいうん元年正月、百かん跪伏きふくれいをとどめたまひ、またこのとし五月の改元に際し、天下に大赦たいしゃほどこし、更に老者ろうしゃ賑恤しんじゅつし、孝順こうじゅん旌表せいひょうせられた。しかるにこの年、旱魃かんばつうちつづき五こくみのらず、民に苦しむものが多かつたので、翌二年四月、このみことのりを下し、五大官寺かんじをして、わざわひをはらひ民のを除くための祈禱きとうをなさしめたまひ、みつぎなかばを減ぜしめられたのである。ほこの年八月再び大赦たいしゃを行はせられ

 よろしく天下に大赦たいしゃして、民とともに更新すべし。死罪已下い かつみ輕重けいちょうとなく、みな之を赦除しゃじょし、老病ろうびょう鰥寡かんか惸獨けいどくにして自存じぞんあたはざるものは、はかりて賑恤しんじゅつを加ふべし

おおせられ、また諸國に疫病えきびょう流行するや、使臣ししんを遣はして大祓おおはらいをなさしめ、あわせて醫藥いやくをも下したまわつた。慶雲けいうん四年六月十五日、御年おんとしわづかに二十五歳にして、藤原宮ふじはらのみやほうじ給うたが、世にこの御世み よしょうして大寶たいほうといふ。當時とうじ文物ぶんぶつ典章てんしょうととのひ、四ほう皇化こうかにうるほひ、世態せたいすこぶる進歩して、太平たいへいふうみるべきものがあつたが、これは一に天資てんし英邁えいまいにわたらせられし天皇御仁政ごじんせいによるものであつた。また天皇がくを好みたまひ、經史けいしに通ぜられ、特に修史しゅうしぎょう御心おんこころをよせられたので、大寶律たいほうりつりょうもこの御宇ぎょうに完成したのであつた。