12 直言を求むるの詔 孝德天皇(第三十六代)

直言ちょくげんもとむるのみことのり(大化二年二月 日本書紀

朕聞。明哲之御民者懸鍾於闕而觀百姓之憂。作屋於衢而聽路行之謗。雖芻蕘之說親問爲師。由是朕前下詔曰。古之治天下。朝有進善之旌。誹謗之木。所以通治道而來諫者也。皆所以廣詢于下也。管子曰。黄帝立明堂之議者上觀於賢也。堯有衢室之問者下聽於民也。舜有告善之旌而主不蔽也。禹立建鼓於朝而備訊望也。湯有總術之廷以觀民非也。武王有靈臺之囿而賢者進也。此故聖帝明王所以有而勿失得而勿亡也。所以懸鍾設匱拜收表人。使憂諫人納表于匱。詔收表人毎旦奏請。朕得奏請仍又示群卿。便使勘當庶無留滯。如群卿等。或懈怠不懃或阿黨比周。朕復不肯聽諫。憂訴之人當可撞鍾。詔已如此。旣而有民明直心懷國士之風切諫陳疏。納於設匱。故今顯示集在黎民。其表稱。緣奉國政到於京民。官留使於雜役云云。朕猶以之傷惻。民豈復思至此。然遷都未久。還似于賓。由是不得不使而强役之。毎念於斯未嘗安寢。朕觀此表嘉歎難休。故隨所諫之言罷處々之雜役。昔詔曰。諫者題名。而不隨詔命者。自非求利而將助國。不言題不。諫朕廢忘。

【謹譯】ちんく、明哲めいてつたみおさむるは、かねかどけて百せいうれいおくちまたつくりて、路行みちゆくひとそしりき、芻蕘すうじょうことばいえども、みずかひてしるべせりと。これりてちんさきみことのりくだしてはく、いにしえ天下てんかおさむるや、ちょうぜんすすむるのはた誹謗ひぼうあり。治道ちどうつうじ、諫者かんじゃもとむる所以ゆえんなり。みなひろしも所以ゆえんなり。管子かんしいわく『黄帝こうてい明堂めいどうつるは、かみけんるなり。ぎょう衢室くしつといあるは、しもたみくなり。しゅんぜんぐるのはたありて、しゅおおはれざるなり。建鼓けんこちょうにたてて、訊望しんもうそなふ。とう總術そうすいていあり、もったみる。武王ぶおう靈臺れいだいゆうありて賢者けんじゃすすむ』と。いにしえ聖帝せいてい明王めいおうたもちてうしなふことく、うしなふこと所以ゆえんなり。このゆえつりがねけ、はこもうけ、ふみおさむるひとはいし、憂諫ゆうかんひとをして、ふみはこれしめ、ふみおさむるひとしょうして、旦毎あさごと奏請そうせいせしむ。ちん奏請そうせいよっまた群卿ぐんけいしめして、便すなわ勘當かんとうせしむ。こいねがわくは留滯るたいすることからんことを。群卿ぐんけいあるい懈怠けたいしてねんごろならず、あるい阿黨あとう比周ひしゅうし、ちんまたいさめくことをがえんぜずんば、憂訴ゆうそひとまさつりがねくべし。しょうすでかくごとし。すでにして、たみ明直めいちょくにして、國士こくしふうおもひ、切諫せっかん陳疏ちんそするものあらば、もうくるところのはこれよ。ゆえいま集在うごなわりはべ黎民おおみたから顯示し めす。ふみはく、くにまつりごとほうずるにりてみやこいたれるたみを、つかさとどめて雜役ぜつえき使つか云云うんぬんと。ちんこれもっ傷惻しょうそくす。たみまたここいたるをおもはんや。しかるにみやこうつすこといまひさしからず、かえりてたびびとたり。これりて使つかはざることをずして、しいこれつかふ。これおもごとに、いまかつしんやすんぜず。ちんふみて、嘉歎かたんがたし。ゆえいさむるところげんしたがひ、處々しょしょ雜役ざつえきむ。さきしょうしていわく、諫者かんじゃしるせと。しかるに詔命しょうめいしたがはざるものは、みずかもとむるにあらずして、まさくにたすけんとするなり。題不うわぶみはじ。ちん廢忘はいぼういさめよ。

【字句謹解】◯明哲 明君めいくん哲人てつじん賢明けんめいなる聖天子せいてんし事理じ りにあきらかにして賢き人 ◯懸鍾於闕而觀百姓之憂 けつ禁門きんもんすなわ宮城きゅうじょうの門。禮記らいきに『君子、則思臣民』とある。すなわち民にうれひある時は宮闕きゅうけつつりがねをつかしめて、その憂ひを知る義 ◯作屋於衢而聽路行之謗 おくは家屋。はちまた、町の中。路行ろこうは道く人、通行人。すなわち家屋をちまたに作つて通行人のそしりごえをきく。天子が人民のいつはらざるこえく意。帝堯ていぎょうの『衢室くしつとい』に出づる語 ◯芻蕘の說 すうは草を刈る人、くさかりうど。じょうは木をきる人、きこり。てんじて芻蕘すうじょう微賤びせんの者、身分ひくきものの義、すなわち身分ひくき微賤びせんの言葉 ◯古之治天下云々 以下らい諫者かんじゃなりまでの二十五字は、漢書かんじょ帝紀ぶんていきの文にられしもの ◯進善之旌 むかし帝堯ていぎょうぜんを進むるものをはたもとに立たしめし故事こ じに出づ ◯誹謗の木 木を橋上きょうじょうに立て、政治の過失をそしるげんを書かしめて反省せし故事に出づ ◯治道 天下を治める道 ◯諫者 いさめるもの ◯管子 管仲かんちゅうの著書。主として政治經濟けいざいの道を述べたるもの ◯黄帝 姓は公孫こうそん、名は軒轅けんえん神農氏しんのうしまつりごとおとろふるや之に代つて始めて海內かいだいを統一して仁政じんせいく。この時代より文化發達はったつし、歷法れきほうおよび文字もんじ始まり、蒙昧もうまいの世を去りて歷史れきし時代にる。後世道敎どうきょう黄帝こうていとうとんで眞君しんくんといふ ◯明堂 管子かんし(卷十八桓公問)明臺めいだいに作る。『鄭玄曰、者明政敎堂』とあり ◯ 堯帝ぎょうてい。西紀前二千年の人、姓は伊祁い き、名は放勛ほうくんていとなるや曆象れきしょうを治め、仁政じんせい治績ちせきあり、ち位をしゅんゆずる。後世しゅんと共に明君めいくんとして尊崇そんそうせられる ◯衢室之問 ちまた居室きょしつをつくり、民のこえく。しん民情みんじょうを知る意 ◯ 堯帝ぎょうていの後をぎし明君めいくんぎょうまつりごとせっすること二十八年、ぜんを受けて帝位にく。治績ちせきすこぶるあがり、後世ぎょう併稱へいしょうして聖君せいくんとよばる。商均しょうきん不肖ふしょうなりとして、位をゆずる ◯ 明君めいくんしゅんに用ひられて之をせっす。しゅんほうずるやぜんをうけて帝位にき、國をごうす。質素をむねとして民力を休養きゅうようし、善政ぜんせいく ◯建鼓をたて いにしつづみを立て民の諫訴かんそをききしもの。淮南子えなんじに『堯置敢諫之、舜立誹謗之木』とある ◯訊望に備ふ しんは告げる、もうはのぞみねがふ。すなわち人民の訴願そがんに備へること。管子かんししんあいに作り、ちゅうに『唉驚問也』とみゆ ◯ しょう成湯帝せいとうていの略。せいとは武功ぶこう成就じょうじゅせしゆえの名、とくを積み仁政じんせいき、民心みんしんあつまる ◯總術の廷 をきてをすべ取り締るところ、今の裁判所の如きもの。通證つうしょうに『術音遂、萬二千五百家曰遂、管子廣地篇里十爲術』とあり ◯靈臺の囿 詩經しきょうの語、民が文王ぶんのう靈德れいとくたのししたつてだい靈臺れいだいといひ、臺下だいかその靈臺れいだいゆうまたは靈囿れいゆうと言ひしに出づ。文王ぶんのうのうてな ◯ 大なるはこ、ひつ。小なるはこをるこうといひ、大なるはこをといふ ◯憂諫の人 憂へいさむる人 ◯勘當 かんがへしらべて是非をはんず、考へ合せる、校勘こうかん ◯留滯 とどまりとどこほる ◯懈怠 なまけおこたる ◯阿黨比周 はおもねる、とうはへつらひくつく(阿附)。わたくしの心をもつてかたより親しみ、しゅうは正しき道を以てあまねまじわる、てんじて比周ひしゅうひろく公私の別なく親しみ合ふ義 ◯懷國士之風 原本に作る。文選もんぜん司馬遷報任少卿書に『』とあるによって改む ◯切諫陳疏 切諫せっかんは切なるいさめ、陳疏ちんそはこまかく箇條書かじょうがきにした書狀しょじょう(奏疏) ◯設匱 備へつけのはこ ◯集在 集侍しゅうじに同じ。うごなはりはべる、よりあつまつて居る意。續紀しょっき宣命せんみょうしき祝詞のりと等に多く見ゆる語 ◯黎民 もろもろの民。、またれいくろで、庶民は冠をけずして黑髪くろかみをあらはすゆえとも言ふ ◯到於京民 公役こうえきのためにみやこに至れる民をいふ ◯傷惻す いたみかなしむ ◯ まらうど。客人、たびびとすなわあらたに都をうつしたばかりなので、まだ他國から來た旅人のやうであるとおおせられしもの ◯寢を安んぜず 安心してやすらかに眠ることもできない ◯嘉歎 よしみほめる、よろこびほめる ◯不言題不 うはぶみすなわ題目だいもく有無を問題とはしないとの意。

〔註一〕都を遷す 皇極こうぎょく天皇飛鳥あすか板盖宮いたぶきのみや(大和國高市高市郡高市高市村大字岡にありしといへど詳かならず)から、難波なにわ長柄ながら豐崎宮とよざきのみや(今の大阪市東區大阪城附近の地にて、仁德天皇の高津宮附近といひ、また一說には西成區豐崎町長柄の地ともいふ)に遷都されしを指す。

【大意謹述】聞くところによると、古來、聖天子が民を治めるには、禁門きんもんにつりがねをかけて民の苦しみを知り、また町の中に居室きょしつを作つて道く人の惡口をも注意し、たとへ草刈りや木こりのやうな微賤びせんのものの言葉でも、親しく問ひただして、これをしるべとしたといふことである。ちんが昨年(大化元年)八月、みことのりを下して特につりがねはこを設けあまねく民の諫言かんげんを求めた所以ゆえんのものは、いにしへの聖天子が天下をしろしめさんとするや、朝廷に善をすすむるはたを立て、橋に誹謗ひぼうの木を立てて直言ちょくげんを求め、政治の道を明らかにしたのと同じく、ひろく天下に諫者いさめるものを求め、しも人民にはんと欲したからであつた。管仲かんちゅうはその著「管子かんし」に於て說いていわく『黄帝こうてい明堂めいどうを立てたのは、かみ聖賢せいけんかんがみんとしたからであり、堯帝ぎょうていちまた居室きょしつを作つたのは、親しくしも人民のこえを聞かんと欲したからである。舜帝しゅんていは善を進むるものをはたもとに立たしめて、しもの進言を得たために、そのめいおおはるる所なく、また明君めいくんは、朝廷につづみを立てて人民の訴願そがんに備へ、しょう成湯帝せいとうてい總術そうすいていを設けて、人民の非違ひ いただし、武王ぶおうには靈臺れいだいそのがあつたために、賢者けんじゃが進みあつまつた』と。これすなわいにしへの聖帝せいてい明王めいおう臣民しんみん信望しんぼう、保ちて以てこれを失はなかつた所以ゆえんである。

 そこでちんはさきにみことのりして、特につりがねはことを朝廷に設け、國家の政治をうれふる人をして、上申書をはこれしめ主吏しゅりをして毎朝これを奏請そうせいせしめることとしたのである。そして奏請そうせいるや、はじめにづ諸官に示して、これを調査研究せしめ、諸官はこれにおうじて遲滯ちたいするところなくこれを研究し、もし諸官がなまけたり、不親切であつたり、あるいはおもねりへつらつたり、よこしまなる私心をさしはさんで判斷はんだんをしたり、あるいはまた朕がいさめをきくことを承知しなかつたりした場合には、その上申書を書いたものは、つりがねくこととしたのである。かやうな趣旨しゅしもと明直めいちょくの心を以て國家を憂へ、諫言かんげんていしたいと思ふものは、書を設けあるはこに入れよと命じたのであつたが、いま一しょを得たので、これをうごなはりはべるもろもろの民に示すであらう。その上申書にいわく『國のまつりごとほうじ、公役こうえきのためにみやこいたれる民を、役人たちが長くみやこにとどめて雜役ざつえきに使ふ云云うんぬん』とある。これを見て朕は、はなはだいたみ悲しむ。民もまたうしてここに到るを思つたであらうか。しかるにまだ遷都せんと早々そうそうのこととて朕は他國から來た旅人のやうで、しかも新都の仕事が多かつたために、やむを得ず、ひて諸國の使つかいのものを使役しえきした次第である。しかしこれは朕の不本意であつて、このことを思ふ毎に心痛しんつうはなはだしく、いまだかつても安らかに眠つたことはない。このふみをみていたく感じ、そのいさむることばしたがひ、これからはかやうな雜役ざつえきをやめるであらう。また先にみことのりして上申書は名をしるせとつたが、この詔命しょうめいに反するものでも、みずか利益りえきを求むるのではなくて、國家を救はんとするためのものであれば、名題うわぶみについてはかく言はないから、遠慮なく進言して朕の廢忘はいぼういさむるやうにせよ。

【備考】このみことのり發布はっぷに先だち天皇にはその前年(大化元年)八月、つりがねはこちょうに設けられ『もし訴訟そしょうあらば記してはこれよ。主吏しゅりは毎朝その書を出してちょうそうせよ、もし官司かんしおこたりて罪をたださず、阿黨あとうしてうったえぐることあらば訴人そにんきたつてつりがねけ』(第十參照)とみことのりして、憂訴ゆうその道を開かれたのであるが、いくばくもなくみやこにおける使役しえきかんする上申書を得られたので、そのげん御嘉納ごかのうの上このみことのりはっせられ

 ちんこのふみをみて嘉歎かたんやみがたし。ゆえいさむる所のげんしたがひ、處々しょしょ雜役ざつえき

とてただちに使役しえきを禁ぜられたのである。

 當時とうじの世相をあんずるに、大化たいか革新かくしん草創そうそうさい(大化革新の大詔を發せられたのは大化二年丙午正月で、本詔書下賜の一ヶ月前である)とて、百せいいまだちょにつかず、政務御多端ごたたんわたらせられたのであるが、しかも『これを思ふごといまかつしんやすんぜず』とおおせられし如きは、まことにおそれ多ききわみである。思ふに大化革新の主眼しゅがんとする所は、土地國有こくゆうとその分配とによつて、國民間にとみの分配を公平ならしめ、一部豪族ごうぞく獨占どくせんを防ぎ、この新たなる經濟けいざい組織のもとに、しん天皇政治をかんとするにあつた。それは天皇御卽位ごそくいの日(皇紀一三〇五年六月十四日)、群臣ぐんしんを率ゐて大槻樹おおつきのきもとかいし、天神てんしん地祇ち ぎちかひ給ひし

 てんおおせ、帝道ていどう一なり。しかるに末代まつだい澆薄ぎょうはくにして、君臣くんしんじょうしなへり。皇天こうてんれに暴逆ぼうぎゃく誅殄ちゅうてんす。いまより以後い ごきみに二せいなく、しん貳朝にちょうけん。もしちかいそむかば、天災てんさい地妖ちよう鬼誅きちゅう人伐じんばつこうとして日月じつげつごとけん。

といふみことのりによつても拜察はいさつすることができる。當時とうじ各地の族長は、さかんに人民を驅使く しして山野さんや江澤こうたくひらき、その利はことごとくこれをわたくしして、ひそかに私兵しへいたくわふるものさへあつた。彼等は名目めいもくにおいては、朝廷に調賦ちょうふを納めるといふけれども、そのじつはほしいままに人民に課稅かぜい搾取さくしゅし、大半はおのれにおさめ、あまりあれば朝廷に納めたにすぎぬ。かくの如き時にあたつて天皇敢然かんぜんとして『君びきみに二せいなく、しん貳朝にちょう無し』とだんぜられ、臣民しんみんは人民より租稅そぜい徵收ちょうしゅうするの權利けんりなしと明言めいげんせられしことは、まさに氏族しぞく政治の禍根かこんに、巨斧きょふを加へられしものと申しぐべきであらう。かくて日本は孝德こうとく天皇御英斷ごえいだん中大兄皇子なかのおおえのおうじ(後の天智天皇)の御努力とにより、武帝じんむてい以來一千三百年にして、はじめて國家としての組織と形體けいたいとを備ふるに至つたが、これはじつ天皇の『人々のところんことを思ひ、しばしも胸にめず』(大化二年八月、諸制改新の詔の一節)といふ御精神ごせいしん發現はつげん成就じょうじゅと申しぐべきであらう。