大日本詔勅謹解1 思想社會篇 緒言

緒言 

一、詔勅宣命

詔勅しょうちょくとは、邦語ほうごのいはゆるミコトノリの義で、天皇すめらみこと御言葉おことばるのひである。古代は別に詔勅かんする制式なく、文武もんむ天皇大寶令たいほうりょう(大寶律・令に就ては第十八の〔註一〕を參照せよ)を定めらるるに及んで、始めて詔勅の制あるを見る。しょうちょくおよび宣命せんみょう區別くべつは、臨時の大事をのらするをといひ、例へば蕃國使ばんこくしに命をせんし、および改元かいげん改錢かいせん赦令しゃれい等のるいはこれにぞくし、その他尋常じんじょう小事しょうじかんするものをと呼んだ。したがつてつぶさには詔勅の式またみずから別があつたのである。しかして當時とうじ詔書しょうしょの式は、いづれも國文こくぶんつたのであるが、のちに漢文の式を制するに及び、國文の式をと呼んで之と區別くべつした。すなわ宣命せんみょうとはどくちょくの義で、純粹じゅんすいのわが國語を用ひ、天皇大命たいめい宣傳せんでんするために用ひられたものであつて、主として神事しんじ改元かいげん卽位そくい立后りっこう立太子りったいし等の際にはっせられたものである。本居もとおり宣長のりながの『續紀しょっき歷朝れきちょう詔詞解しょうしかい』に

 世にいはゆる宣命せんみょうは、すなはちいにしえ詔勅しょうちょくにして、上代じょうだい詔勅は、此外このほかなかりしを、よろずことからくにさまにならひ給ふ御世み よ々々み よとなりては、詔勅も、漢文からぶみのを用ひらるること多くなりて、のちの世にいたりては、つひにその漢文からぶみなる方を、詔書しょうしょ勅書ちょくしょとはいひて、もとよりの皇國言みくにことばのをば、わけ宣命せんみょうとぞいひならへる。

と見ゆ。しかしてしょうちょくは、古くはいづれも音讀おんどくしてじょうちょくんだものと思はれる。しょうを『ぜう』とめる例としては『類聚るいじゅう代格だいきゃく第一』、神龜じんき二年七月二十日の詔のはじめにあるの字に、一本に濁點だくてんがあつて、特に濁音だくおんなることを示せるを見る。次にを『ちよく』と音讀おんどくせる例としては、『拾遺しゅうい和歌集九雜』に

  うちより人の家にはべりける紅梅こうばいをほらせたまひけるに、うぐいすのすくひてはべりければ、家のあるじのおみな、まづかくそうせさせはべりける

 いともかしこしうぐいす宿やどはととはばいかが答へむ

とあるにつて知るべきである。文字もんじは、諸本しばしばちょくちょくに作るも、本書はしばらちょくしたがふ。あんずるに、大寶令たいほうりょうの制によれば、邦語ほうごを以て皇命こうめいせんするをしょうといひ、漢文を以て宣するをちょくといつたもののやうであるが、のちしょうちょくと同じく漢文を用ひることとなつたので、特に邦語を以て宣するを宣命せんみょうと呼んで、これと區別くべつするに至つたものと思はれる。

二、詔勅の制式

 詔書しょうしょ發出はっしゅつは、りょうの制式によれば、大體だいたい次の如き順序によつてなされたものである。內記ないきに命じて草案そうあんをつくらせ、參議さんぎ以上しくは內侍ないじして、これをそうせしむる。なれば、年月ねんげつもとに日を宸署しんしょし給ふ。これをといふ。そしてこれを中務卿なかつかさきょう(今日の宮內大臣に似たり)に給ふ。きょうは受けてこれを大輔たいふせんし、大輔は更に少輔しょうすけに付して、太政官だじょうかんに送らせる。この間各自は、いづれもその姓名のもとに、各々せん奉行ぶぎょう文字もんじちゅうする。もし卿不在の場合は、大輔の姓名の下に宣と注し、少輔の姓名の下に奉行と注し、大輔もまた不在の場合には、少輔の姓名の下にあわせて宣・奉行と注する。もし少輔不在の場合には、じょう以下また準じてこれを行ふ。かくてこれを留めて案となし別に一通をうつし、印署いんしょして太政官に送る。太政官はこれを受くるや、外記げ き詔書しょうしょのちに、太政大臣だじょうだいじん以下大納言だいなごん以上の姓名を注記ちゅうきし、大納言は更にこれを覆奏ふくそうする。ここにおいて年月日の次に、可の字を宸署しんしょし給ふ。これをといふ。太政官はこれを官に留めて案となし、更に一通をうつして、在京ざいきょう諸司しょしには、これに官符かんぷへて行下ぎょうげし、諸國には、更に官符にうつして施行しこうせしむる定めであつた。事ひろく百せいかんする詔勅の場合には、京職けいしきおよび國司こくしは更に次を以てこれを行下ぎょうげし、里長りちょう坊長ぼうちょうをして、その受け持ちの部落內を巡歷じゅんれきして百せい宣示せんじし、よくその趣旨を徹底せしむる方法をこうぜしめたのである。そしてもし天皇御幼冲ごようちゅうの時は、攝政せっしょうが代つて御畫ごかくを加ふる規定であつた。

 次には、勅命ちょくめいをうけたものが、ただちに中務省なかつかさしょう宣送せんそうする定めであつたから、したがつてなく、中務省覆奏ふくそうおわるや、きょう以下少輔しょうすけ以上のしょを取つたものを案として留め、更に一通をうつして、太政官だじょうかんに送る。この場合太政官は更に覆奏ふくそうしないので、したがつてもなく、大辨だいべん以下少辨しょうべん以上のものこれに連署れんしょし、年月日のもとにそれぞれ姓名を注したものを案として留め、別に一通をうつして施行しこうする規定であつた。施行の式は、全く前記詔書しょうしょの場合と同樣どうようで、もしちょくして五(五衞府の略で衞門府・左衞士府・右衞士府・左兵衞府・右兵衞府をいふ)および兵庫ひょうご(左兵庫・右兵庫・內兵庫をいひ、何れも儀仗兵器の保存・手入を司どつた)のことを處分しょぶんする場合には、特に本司ほんじはこれを覆奏ふくそうする定めであつた。延喜えんぎ天曆てんりゃく以降、往々おうおうにして勅書ちょくしょ御畫ごかくの例のあるものを見るが、これは年中行事障子しょうじもんれるもので、本來勅書ちょくしょの正式ではないのである。

 また諸臣の辭官じかんの表や、論奏ろんそう等に答ふるために、勅書ちょくしょたまふこともあり、これをといつた。新任の大臣の上表じょうひょうには、三たびに至つて勅答ちょくとうがあり、その度毎たびごとに勅答があり、中納言もしくは近衞このえ次將じしょうつかはして勅書をもたらし、その第宅ていたくに就いて之をたまはしむるを例とした。は、太政官らずして、中務省なかつかさしょう所司しょしに移して事を行ひ、その正勅せいちょくのちに式につて施行しこうし、または、中務省においてつぶさ勅狀ちょくじょうろくして、これを辨官べんかんに申し送り、施行の日に至つて勅旨ちょくしと呼ぶ定めで、例へば勅旨ちょくし交易こうえきおよび勅旨田ちょくしでんの如きは、すなわちこれである。そのおよびがあり、別勅べっちょく太政官ずして勅旨ちょくしを施行し、口勅こうちょく口達こうだつされし勅命ちょくめいで、天皇が御自身おおせられしものと、諸司しょしに命じて勅旨を宣傳せんでんせしめられしものとがあり、またもあつた。

 さてこれ等の詔勅しょうちょくは、その宣行せんぎょう以前においては、中務省なかつかさしょうかかかんほかたやするを許さず、太政官がこれを頒下はんげする時には、別に冩程しゃていを給ひ、もし稽緩けいかんした場合には、罪をする例であつた。もしまた詔勅施行の結果、不合理なことが起つたり、あるいは不便であつたりした場合には、それぞれ所在の官司かんしをして、實狀じつじょうして執奏しっそうせしめ、もし官司かんしの施行方法が法にたがふ場合には罪を科し、詔勅文字もんじ誤脫ごだつして趣旨を失ふやうな場合には、更に改正して覆奏ふくそうせしめ、もし奏聞そうもんせずして勝手に改定したり、あるい詔勅を受けて忘誤ぼうごしたり、うつあやまつたり、あるいはまた詔勅詐爲さ いし、しくは增減ぞうげんしたりするものにたいしては、罪狀ざいじょう輕重けいちょうつてそれぞれきびしき罪を科する定めであつた。詔勅は、すべて黄紙こうししょし、その案は所司しょしをしてくらに納めて永く保存せしむる規定であつたが、施行済みの詔勅にして、理にそむくものがあつた場合には、ただちにこれを燒却しょうきゃくせしむるのが古來の慣例かんれいであつた。

三、日本民族の固有思想

 本篇ほんぺんおさむるところの詔勅しょうちょくは、列聖れっせい詔勅のうち、特に思想問題・社會しゃかい問題に關連かんれんありと思惟し いさるるもの百一しょうえらんだものである。ゆえにいま講述こうじゅつに先だち、日本民族の固有思想に就て一ごんする。固有思想とは、いふまでもなく大陸思想の影響をいまだ受けない以前、すなわ日本民族が本來もつてゐたところの思想をいふのであるが、この問題を正確に述ぶることは、簡單のやうであつて、じつは極めて困難である。なんとなれば第一に、日本民族が外國すなわち三かん支那し なとの交通を開始したのを、どの時代と認定すべきかが問題であり、つぎに大陸文化の輸入を、神功じんごう皇后こうごうかん征伐せいばつ以後もしくは應神おうじん天皇以後であると假定かていしても、間接にこうむつたところの外國文化の影響(例へば九州地方の土民は大和朝廷の支配を受くる前、すでに大陸との交渉を有つてゐた如き)をいかに考ふべきか。こと記紀き きの筆者たちが當時とうじすでに支那し ながく及び支那思想の影響をうけてゐたであらうことは想像に難くないところで、したがつて應神天皇以前の事件として記されたことであつても、それがしんに固有の思想なり信仰なりであつたかいなかは、容易に卽斷そくだんしがたいからである。しかしこれは理論の問題であつて、實際じっさい問題としては、應神天皇御代み よに公然と國交の始まつた時を以て、わが固有文化時代の終りとすることは、大體だいたいに於て間違つてゐないと思ふ。ことに固有思想と外來思想に就ては、わが古代史にたいする一通りの理解をもつてれば、ある程度までは常識的にも判別しるのであるから、今はこの見解にしたがつて筆を進める。

 萬葉集まんようしゅうに『葦原あしはらのみづほのくには、かむながらことあげせぬくに』とあるが、日本民族の固有思想を說くためには、建國けんこくの根本思想であるこの『ことあげせぬ』といふことについて一ごんせねばならぬ。『事あげせぬ』とは平たく說明すれば、特別に取りたてていふことなく、素直にすらすらと自然に隨順ずいじゅんして生長せいちょうした國で、少しも人間の作爲さくいが加はつてゐないといふ意味である。支那し なに於ては三こうを理想とし、これについで五てい、それから王、これに次ぐをといひ、權力けんりょくを以て治むるはこくであり、とくを以て治むるは王國であり、德の更にすぐれたのは帝國ていこくであり、であるといつて居るが、とは人の作爲さくいを加へた有爲う いたいすることばで、すなわことを意味する。外國の歷史をみるに、古代の國家は多く征服によつて統治とうぢ權力けんりょく、近代の國家は主として、約束によつて統治とうぢ大權たいけんを定めて居る。この征服といひ約束といふも、畢竟ひっきょう、ともに人爲じんいであり作爲さくいであるが、ひとりわが國は、何等事あげすることなく、自然のままに發生はっせい生長せいちょうして來て居る。すなわ皇祖こうそ神勅しんちょく(第一參照)は、國家成立の天業てんぎょう經綸けいりんしたまふ神慮しんりょ實現じつげんであつて、天業てんぎょうとは天から授けられし自然の大業たいぎょうを意味し、決して征服とか約束とかといふ作爲さくいや後天的條件じょうけんを意味するものではない。この『事あげせぬ』思想が觀念かんねんとなつて現はれて居るのが、ちゅう觀念かんねんである。ゆえにわが國においては、古來天皇たいする忠節ちゅうせつは、理論を超越ちょうえつして居る。何等の理窟りくつなしに、絕對ぜったい無條件むじょうけん天皇崇敬すうけいすることが、日本民族の自然の感情である。現にこれは、今日こんにちとてもその通りであつて、すなわ大日本帝國憲法の第三條は

 天皇てんのう神聖しんせいニシテおかスヘカラス

と規定してゐるが、何故なにゆえ神聖しんせいであられるかといふ理由に就ては別段何も示されてゐない。しかも國民また誰もそれをあやしむものなく、天皇は無條件に神聖であらせらるると信じてゐるが、これは事あげせぬ思想の最もよき現れである。そしてこの思想こそ、日本民族が、二千六百年來、あらゆる大陸文化の影響や、文物ぶんぶつ制度の變遷へんせんに逢ひながらも、微動だもすることなく堅持けんじしつづけて來た固有思想である。『おほぎみのみことかしみいそにふり、海原うなばらわたるちちははをきて』といふ助丁丈郞すけのよぼろべの造人麿みやつこひとまろの歌の如きは、ちゅうよりもこうを以て重しとすることを原則とする儒敎思想などにつては、到底とうてい理解しがたき思想であつて、やはり日本國民のみのもつ、自然の感情である。

 かかる思想はやがてまた日本民族に、『あめ益人ますびと』といふ自覺じかくと、自尊じそんの念をいだかしめた。あめ益人ますびととは、天意てんいほうじてさかひとといふ意味で、とりも直さず、天意を地上に實現じつげんしてゆく國民といふことである。天とは至高しこうなる理想の具現者ぐげんしゃとしての天皇を呼び、天意を奉ずるとは、天皇大御心おおみこころを奉ずることで、大伴おおともの家持やかもちのいはゆる

 うみゆかばみづくかばね、やまゆかばくさむすかばね、大君おおぎみにこそなめ、かへりみはせじ

とする心事しんじは、じつにこの天意を奉ずる聖業せいぎょうのためにじゅんぜんとするわれ等の祖先の烈々れつれつたる意志表示であつて、こととは問題ともしないといふ意で、明らかに事あげせぬ思想の現はれである。そして彼等は『天雲あまぐもむかすかぎり、谷蟆たにぐくのさわたるきはみ、皇御孫命すめみまのみこと大御食國おおみおすくに』と信じたがために、その天業てんぎょう恢弘かいこう聖業せいぎょうたいしては、まつろはすためのたたかひを起した。まつらふとは祭り合ふ意で、同一の神を奉ずること、すなわち同一理想を奉ずる意であつて、彼等は私利し り貪婪たんらんの心を以て戰つたのではない。彼等がその誇れる細戈くわしほこ精銳せいえいなる武器―を執つて敢然かんぜんつたのは、同一理想を奉ぜざるものをして、彼等の理想を奉ぜしむるためであり、そして天皇による『しらす』の政治の仁慈じんじよくせしめんがためであつた。は知らすすなわことあずかおさむる意で、國のため民のためまたは社會しゃかい公共のためにすることを意味し、そこに一てん私心ししんをも含むものではない。ゆえにわが天皇政治は公平こうへい無私む しにして、秋毫しゅうごうわたくしもないのである。われ等の祖先は、天意を奉じてまつろはぬものを討ち、しらすの政治の仁慈に浴せしむることを以て、『あめ益人ますびと』の誇りと信じてゐた。故に彼等はつねに勇敢であつた。同時にまた彼等は、優美な性情せいじょうの持ち主でもあつた。有名なフランスの思想家ポール・リシヤル氏はその著『日本に告ぐ』において『一面においては恐るべく、他面においては優美にち、不斷ふだん躍動やくどうする力を微笑びしょううちにつつめるは、日本の自然の姿である。この自然を愛慕あいぼする日本人は、その姿にかたどつて造られたがために、おのづから凛烈りんれつ溫柔おんじゅうとをゆうし、力にたいする豪放性ごうほうせいと、美にたいする典雅てんがなる趣味とをそなふ』といひ、またドイツ一流の文章家カイザーリンク伯も、その著『哲學者の旅日記』において『日本人は、その自然のうるはしき環境に美化され洗鍊せんれんされた美的生活者である』といつて居るが、まことに大和やまと島根しまねうるはしき自然は、われ等の祖先の性情せいじょうを優美明朗めいろうならしめた。この美はしき國土を彼等は『朝日あさひひたし、夕日ゆうひひたくに』と呼んで、そのほがらかなる日光を喜び、また『豐葦原とよあしはら千五百ち い ほあき瑞穗國みづほのくに』と呼んで、その豐沃ほうよくなる土地をたたへ、また『浦安うらやすくに』と呼んで、松靑く砂白き海邊かいへんに、平安なる生活をたのしんだ。かかる自然の美はしき環境に美化されて、彼等は勇敢なる一面に優美で明朗な性情をもつてゐた。そしてかやうな性情が、やがて日本民族の固有思想たる忠君ちゅうくん愛國あいこく仁愛じんあい正義せいぎの思想となり、あめ益人ますびと自覺じかくとなるに至つたのである。