30 鴨川を穢すことを禁ぜむと賀茂縣主廣友の請へるに報ずるの勅 仁明天皇(第五十四代)

鴨川かもがわけがすことをきんぜむと賀茂縣主かものあがたぬし廣友ひろともへるにほうずるのみことのり(承和十一年十一月 續日本後紀

宜仰當國、迄于河源、嚴加禁斷。若違犯者、禁其身申送。國郡司幷禰宜祝等、許容之者、必處科。

【謹譯】よろしく當國とうごくおおせて、河源かげんいたまでおごそかに禁斷きんだんくわふべし。違犯いはんするものは、いましめてもうおくれ。國郡司こくぐんのつかさならび禰宜ね ぎほうりこれ許容きょようするものは、かならしょせん。

【字句謹解】◯鴨川 山城國やましろのくに流れる川の名 ◯當國 山城國やましろのくにの意 ◯河源 河の上流のこと ◯嚴かに 嚴重げんじゅうに ◯禁斷を加ふべし 鴨川かもがわ穢物わいぶつまじへることを禁ずる命令をはっしなければならない ◯違犯する者 命令にしたがはない者 ◯其の身を禁めて その者の自由を失はせて ◯禰宜祝等 男女の神官しんかんをいふ ◯許容 許したり大目に見たりすること ◯科に處す 罪にしょする。

【大意謹述】現在、水の淸潔せいけつを保つため早速山城國やましろのくにに命じて、鴨川かもがわの上流に至るまで、穢物わいぶつまじへることを嚴重げんじゅうに禁止させなければならない。ちんのこの命令にしたがはない者があれば、その人物をいましめ、自由を奪つてぐ報告するがよい。國司こくしぐん役人及び男女の神官しんかんなどが、それを許したり大目に見たりすれば、必ず罪にしょする。

【備考】鴨川かもがわは、京都の風致上、重要な役目をびてゐる。春に夏に秋に冬に、鴨川の流れは、一種の柔かい情趣じょうしゅを添へてゐる。かの三十六ぽうながめの如きも鴨川から見るのが一番よい。だからこれを汚すことは、詩美し び冒瀆ぼうとくすることだ。本勅ほんちょくは、鴨川の美を保ち、淸潔せいけつを保つため、重大な意義をびたものと拜誦はいしょうせられる。

29 諸皇子に朝臣の姓を賜ふの勅 仁明天皇(第五十四代)

諸皇子しょおうじ朝臣あそみせいたまふのみことのり(承和二年四月 續日本後紀

象著損上、禮存寧儉。王者則之、古今合契。朕、雖菲昧、跂予思齊、去泰就約、夙關情慮。如今、所有朕之兒息、除親王之號、賜朝臣之姓。先太上天皇丕恩罔極、玄澤更加。不令別姓、被以源氏、使與曾枝而同蔭、共渭派而混流。其前號親王仍舊不改。同母後產、猶復一例等制、准弘仁五年天長九年兩度勅書。宜告中外、咸俾聞知。

【謹譯】しょう損上そんじょうあらわれ、れい寧儉ねいけんそんす。王者おうじゃこれのっとり、古今ここんけいがっす。ちん菲昧ひまいなりといえども跂予ぎ よしてひとしからんことをおもひ、たいやくき、つと情慮じょうりょかんせり。如今いまのごとくゆうするところちん兒息じそくは、親王しんのうごうのぞいて、朝臣あそみせいたまはらん。さき太上だじょう天皇てんのう丕恩ひおんきわまりなく、玄澤げんたくさらくわはる。別姓べっせいならしめず、こうむらしむるに源氏げんじもってし、曾枝そ しともにして、かげおなじうし、渭派い はともにして、ながれまじへしめたまふ。まえ親王しんのうごうせるは、きゅうつてあらためず。同母どうぼ後產ごさんは、猶復なおまた一に等制とうせいれいせんこと、弘仁こうにんねん天長てんちょうねん兩度りょうど勅書ちょくしょじゅんぜん。よろしく中外ちゅうがいげて、ことごと聞知ぶんちせしむべし。

【字句謹解】◯象は損上に著れ 損上そんじょうは『易經えききょう』の兌下だ か艮上こんじょうである。「そんまことあればおおいにきちなり。とがし。ただしくすべし。ところるにろし。なにをかもちひん。二もっきょうすべし」とある。以上の意義については、たんにおいて、「そんしもそんしてかみえきし、みち上行しょうこうす。そんしてまことあるはおおいにきちなり。とがなし」とあつて、人臣じんしんの身を以てしゅつかへ、百せいえきに服して、奉公するなどは、「みち上行しょうこう」するもので、かみえきしてゆくわけである。要するに、抑損よくそんすることをとするの意を述べた言葉 ◯寧儉 『論語ろんご八佾はついつにある語、「いわく(中略)れいおごらんよりはむしけんなれ」とある。れいの根本は儉素けんそたっとぶにある意。虛飾きょしょくをやめて本質を重んずるのがれいの意義だといふにある ◯ 割符わりふのこと ◯菲昧 おろかといふ義、謙辭けんじである ◯跂予 足をつまだてる事、『詩經しきょう衞風えいふうにある語 ◯泰を去り約に就き 『論語ろんご述而篇じゅつじへんに「むなしけれどもてりとし、やくなれどもたいなりとす」とある。やく貧約ひんやくの意、たいおごりてゆたかな意、すなわおごれるを去つて、質素に就くといふこと ◯情慮 思ひを重ね深く考へる ◯如今 現在の意 ◯太上天皇 淳和じゅんな天皇を指したてまつる ◯丕恩 大なる恩 ◯玄澤 深い慈愛 ◯源氏 みなもとの姓をびた氏族、嵯峨さ が天皇の時に始まる。〔註一〕參照さんしょう ◯曾枝 すえの枝 ◯渭派 渭川いせんのこと、陜西省きょうせいしょう大河たいかここではただ大きい流れの分派の意 ◯等制 等しい制度 ◯弘仁五年・天長九年兩度の勅書 嵯峨さ が天皇及び淳和じゅんな天皇皇子おうじ源姓みなもとのせいたまわりし時の勅書ちょくしょ。〔註二〕參照 ◯中外 くにの內外。

〔註一〕源氏 源氏げんじせいを最初嵯峨さ が天皇からたまわつたのは、天皇皇子おうじまことひろしときわあきら及び皇女こうじょ貞姬さだひめ潔姬きよひめ全姬またひめ善姬よしひめたちである。その戸主となつたのはまことであつた。それから嵯峨さ が源氏げんじしょう出來で きた。爾來じらい仁明にんみょう文德もんとく淸和せいわ陽成ようぜい光孝こうこう宇多う だ醍醐だいご村上むらかみ冷泉れいぜい花山かざん・三じょうじょう順德じゅんとく後嵯峨ご さ が諸帝しょてい御代み よに皇族に朝臣あそみせいたまひ、通例それらを區別くべつして、仁明源氏にんみょうげんじ淸和源氏せいわげんじ文德源氏もんとくげんじなどとつた。あきらまことといふ風に一字を用ゐたのである。

〔註二〕弘仁・天長兩度の勅書 嵯峨さ が天皇弘仁こうにん五年、みことのりあつて、「ちん男女なんにょようやおおし。いまの道をらず。すでに人の父となる。封邑ほうゆうるいむなしく府庫ふ こついやす。よろしく親王しんのうごうとどめ、朝臣あそみせいたまひ、へんして同籍どうせきし、服官ふくかん在公ざいこう出身の始め、一に六位にじょせん云々うんぬん」とおおせられた。ぎに淳和じゅんな天皇天長てんちょう九年にも、以上、嵯峨さ が天皇御精神ごせいしんを重んずるのむねおおせられ、「今、親王しんのうごうするものは、きゅうよっあらためず、同母どうぼ後產こうさんこれごうすることまた同じ。自外じがいならび朝臣あそみせいたまふ。あるい親王しんのうたるべきものは、特にまさに定めんとす。これへいはぶくの遠圖えんとくにおさむるの長策ちょうさくたる所以ゆえんなり」とちょくせられた。

【大意謹述】『易經えききょう』の損上そんじょうに示されてゐるやうに、人間は抑損よくそんして、かみえきするがよく、本質をたっとんで、儉素けんそを守るに越したことはない。王者はこの原理に基づいて政治をす上で、古今、あとを同じうする。ちんもとより不肖ふしょうであるが、及ばずながら、足をつまだてて、右の旨を實現じつげんしようとこころざし、おごりてゆたかならんよりも、きよくして貧しからんことをねがひ、早くからこのてんおもんばかつてゐた。現在自分の王子らは、平生へいぜいの希望により、ここ親王しんのうごう辭退じたいし、朝臣あそんとしてのせいあたへようと思ふ。きの太上だいじょう天皇淳和天皇)の恩愛おんあいこうむること深く、今やこれが一そう加はつてゆくにあたり、親王ごう辭退じたいした王子たちは、すべて姓を別々にせず、一よう源氏げんじとし、根本ねもとから分れた枝葉えだはを同一にせしめ、その同じ葉蔭はかげにをらせ、大きい流れから出た分派を相混あいまじへしめようと考へる。現在より以前、すで親王ごうしてゐるものは、そのままとし、今後同じ母によつて出生しゅっせいしたものは、すべて源氏の姓をあたへて朝臣あそんとすべきこと、弘仁こうにん五年、天長てんちょう九年の勅書ちょくしょに準じたい。當局とうきょくの役人はこの旨を中外ちゅうがいに告げ、一般をして諒知りょうちせしめるやう心がけよ。

【備考】親王しんのう源姓みなものとのせいたまわつて、朝臣あそんとせられた主因しゅいんは、經濟上けいざいじょうの事情によるところが多いと拜察はいさつする。當時とうじ、朝廷の財政は、支出が多くて收入しゅうにゅうこれともなはなかつた。無論、これについて、いろいろの方策ほうさくこうぜられたが、やはり滿足まんぞくにゆかない。左樣そ うしたことから親王皇子おうじたいして、十分の費用を支給し得ないので、臣姓しんせいあたへて臣下しんかせしめ、あるいは地方官に任用さるることとなつた。右の實例じつれいは、旣述きじゅつした如く、最初、嵯峨さ が天皇の時にあらはれ、いで淳和じゅんな天皇の時になると、それが多くなり、天長てんちょう二年には、葛原かつらばら親王に(桓武天皇の皇子)平姓たいらせいたまわり、それから淸原きよはら夏野なつの奏議そうぎを採用して、常陸ひたち上野こうずけ上總かずさの三ごく親王任國にんごくと定め、しゅ大守たいしゅと改められた。それに太宰帥だざいのそつまた親王にんとなつたのである。

 以上の事について、一部の史家し かは「藤原氏權勢けんせい擴張かくちょう主義の犠牲として、藤原氏にはえんのない皇子おうじ達を成るべく地方におもむかせまゐらせるやうになつたのだ」としてゐるが、やはり、主因しゅいんは、經濟けいざい上の事情にある。桓武かんむ嵯峨さ がの二ていは、皇子おうじ皇女おうじょが多いめに自然宮廷費かさみ、諸國しょこく沒官領ぼっかんりょうすなわち有罪のために除かれた者の⻝邑しょくゆう荒蕪地こうぶち、所有者が歿ぼっして無主むしゅとなつた田畠等でんばたとう皇子おうじ皇女おうじょの領地とされたほどで、これ又經濟けいざい上、餘儀よ ぎなき處置しょちであつたらう。その天長てんちょう三年に、平城へいぜい天皇皇子おうじ阿保あ ぼ親王上書じょうしょして、在原姓ありはらせいたまわつたこともまた經濟けいざい上、親王としての生活を支持してゆくだけ餘裕よゆうがないめであつた。要するに、事は必ずしも大きくないが、朝廷の財政が、大分だいぶ行詰ゆきづまつたことを、ここに暗示してゐる。それと同時に、本勅ほんちょく拜誦はいしょうして、英斷えいだんいでられた天皇大御心おおみこころすいたてまつるのである。

28 小年魚を捕ふるを禁ずるの勅 嵯峨天皇(第五十二代)

小年魚しょうねんぎょとらふるをきんずるのみことのり(弘仁五年二月 類聚國史)

水陸之利、公私所倶。捕之不時、物無繁育。如今百姓、好捕小年魚、雖所獲多、於物無用。宜仰山城大和河內攝津近江等諸國、令加禁斷。唯四月以後、不在禁限。

【謹譯】水陸すいりくは、公私こうしともにするところなり。これとらふるにときなければ、もの繁育はんいくなし。如今このごろしょうこのんで小年魚しょうねんぎょとらふ、ところおおしといえども、ものいてようなし。よろしく山城やましろ大和やまと河內こうち攝津せっつ近江おうみとう諸國しょこくおおせて、禁斷きんだんくわへしめよ。ただがつ以後い ごは、きんずるかぎりにあらず。

【字句謹解】◯水陸の利 河海かわうみ山野さんやからる人間生活に必要なもの ◯公私の倶にする所なり 一個人の利益りえきを考へると共に、ひろ社會しゃかい一般の利をも眼中に入れなければならない ◯之を捕ふるに時なければ 自分の利のみを考へて、勝手な物を捕獲して他人のことを考慮しなければの意で、時なければとは時に制限なくとふこと ◯物に繁育なし 水陸の生產物せいさんぶつかずし、成長することがない ◯小年魚 幼時ようじうお ◯物に於いて用なし 實際じっさいあまり役に立たない ◯禁斷を加ふ 禁止する ◯禁ずる限 禁止の期間。

【大意謹述】河海かわうみ山野さんやからられる人間生活に必要なものは、各個人にとつて利となるのみでなく、同時に一般社會しゃかいの利ともなる。ゆえ各人かくじんが自分の利だけを考へて、いつでも勝手に捕獲すれば、それら水陸の利はすことも、成長することもない。近頃國民こくみんの多くは、生れてまだ間もない小魚しょうぎょを好んで捕へるとか聞いた。これはかず多く捕へても、實際じっさいあまり役に立たないと思ふ。だから早速、山城やましろ大和やまと河內こうち攝津せっつ近江おうみなどの諸國に命じ、これを禁止しなければならない。ただ每年まいねん四月以後は、繁殖期となるから、この禁を解く。

27 力士を進むるの勅 嵯峨天皇(第五十二代)

力士りきしすすむるのみことのり(弘仁元年七月 類聚國史)

進膂力人者、常限六月廿日以前。自今以後、隨得則進、莫限期月。又、雖力不超衆、而解相撲者、兼令進之。

【謹譯】膂力りょりょくひとすすむるは、つねに六がつ廿日はつか以前いぜんかぎれり。自今じこん以後い ごるにしたがつてすなわすすめ、期月きげつかぎることなし。またちからしゅうえずといえども、相撲すもうかいするものは、ねてこれすすめしめよ。

【字句謹解】◯膂力の人 膂力りょりょく脊梁骨せきりょうこつのちからの意で、一般に力のしゅうにすぐれた人をいふ ◯進むる者 朝廷に進獻しんけんする者 ◯得るに隨つて則ち進め 發見はっけんする度每たびごとに次々にと進獻しんけんして期日を限らないこと。

【大意謹述】力のすぐぐれた人を朝廷に進獻しんけんする者は、今までは每年まいねん六月二十日以前と限られてゐた。しかし今後は發見はっけんする度に進獻しんけんするを許し、期日を限らないことにする。又、それ程の大力たいりきある者でなくとも、相撲の上手な者は、一緒に朝廷に差し出すやうにしたい。

【備考】當時とうじ、朝廷では、相撲節すもうのせち每年まいねん行はれ、なりに、それが喜ばれた。それで每年まいねん、二三月頃には、部領使ことりつかいを諸國にし、相撲を取るものをされたのである。かうして七月二十六日に內取うちとりがある。それを天皇陛下は、仁壽殿じんじゅでん出御しゅつぎょあつて御覽ごらんなされた。その際、左右の相撲取すもうとり狩衣かりぎぬはかま著用ちゃくようし、禮儀れいぎを正して、技をたたかはした。七月二十八日には召合めしあわせがあつて、天皇當日とうじつ南殿なでん出御しゅつぎょあらせられ御覽ごらんになつた。その際、大將たいしょうから、取組とりくみのプログラムを呈上ていじょうしたのである。本勅ほんちょくはそれに關連かんれんして、はっせられたのであらう。

26 葛野川に度子を置くの勅 桓武天皇(第五十代)

葛野川かどのがわ度子と しくのみことのり(延曆十八年十二月 日本後紀

山城國葛野川近在都下。每有洪水、不得徒渉。大寒之節人馬共凍、來往之徒、公私同苦。宜楓佐比二渡各置度子、以省民苦。

【謹譯】山城國やましろのくに葛野川かどのがわちか都下と かり。洪水こうずいごとに、徒渉としょうするをず。大寒たいかんせつ人馬じんばともこごえ、來往らいおう公私こうしおなじうす。よろしくかつら佐比さ ひかく度子と しき、もったみくるしみをはぶくべし。

【字句謹解】◯徒渉 かちわたる事 ◯大寒の節 非常に寒い時節 ◯來往 つたりたりする ◯公私 官吏かんり土民どみんも ◯楓・佐比 山城國やましろのくに葛野郡かどのごおり葛野川かどのがわ(上流は大井、下流は桂河)にあり。楓渡かつらのわたしは京都七じょうすえあたる場所に存在した。

【大意謹述】山城國やましろのくに葛野川かどのがわは、都下と かに近くあつて、相當そうとう、交通が頻繁だ。ところが、洪水がある度に、誰もそのすさまじい水勢すいせいのため、かち渡りすることが出來で きない。その上、大寒だいかんの時分になると、人も凍え、馬も凍えるほどの有樣ありさで、この川を往來おうらいするものは、公私の區別くべつなく、皆くるしみをひとしくしてゐる。つての者の便宜を計り、かつら佐比さ ひ渡場わたしばには、各自、渡守わたしもりを置き、交通上、便宜を計つて、民のくるしみを除くやう取計とりはからへ。