3 大河內味張が郡司を罷むるの勅 安閑天皇(第二十七代)

大河內おおこうち味張あじはり郡司ぐんじむるのみことのり(元年閏十二月 日本書紀

率土之上莫匪王封、普天之下莫匪王域。故先天皇、建顯號垂鴻名。廣大配乎乾坤、光華象乎日月。長駕遠撫、横逸乎都外、瑩鏡區域、充塞乎無垠。上冠九垓、旁濟八表。制禮以告成功、作樂以彰治定。福應允臻、祥慶符合於往歳矣。今汝味張、率土幽微百姓。忽爾奉惜王地、輕背使乎。宣旨味張。自今以後勿預郡司。

【謹譯】率土そっとうえおうところにあらざるなく、普天ふてんもときみところにあらざるなし。さき天皇てんのう顯號けんごう鴻名こうめいる。廣大こうだい乾坤けんこんならび、光華こうか日月じつげつかたどれり。ながとおで、よこみやこそとこえいで、區域くにのうち瑩鏡みだきてらし、かぎりなきにふさがる。うえ九垓ここのみちかむらしめ、あまね八表や もわたる。れいさだめてもっ成功せいこうげ、がくしてもっ治定ちじょうあらはす。ふくこたまことあつまりて、祥慶よろこび往歳むかし符合か なへり。いまなんじ味張あじはり率土くにのうち幽微ゆうびなる百姓ひゃくせいなり。忽爾たちまち王地おうちおしたてまつり、使つかいかろしめそむけるか。むね味張あじはりべよ。自今じこん以後い ご郡司ぐんじになくわはりそと。

【字句謹解】◯率土の上 土地のつづく限りのこと、これは『詩經しきょう』にある有名な句「溥天ふてんもと王土おうどにあらざるはなく、率土そっとひん王臣おうしんにあらざるはなし」からつた。天下いかなる地方も王の所有でないものはなく、國土のどんな片隅かたすみに住む人でも王家のしんでないものはないとの意 ◯王の封 國王から諸侯しょこうに授けた領土 ◯先の天皇 過去に於ける代々の天皇御事おんこと、必ずしも特定の御方おんかたを指したのではない ◯普天の下 天下全部の事 ◯王の域 國王の支配けんきとどいてゐる土地 ◯顯號を建て 偉大な德行とっこうのある御名み なの意。〔註一〕參照 ◯鴻名を垂る 立派な大きい名を後世にのこすことで、その感化かんかが長く後世につたはる意 ◯廣大乾坤に配び 廣大こうだいは通常「ひろくおほきなること」とくんぜられてゐる。乾坤けんこんは天地の意で、この一句は、「光華こうか日月じつげつかたどれり」とついになつてゐる。過去の諸天皇ひろおおいなる御德おんとく天と地とのやうにこの上もなく著しく世の中にあらはれる意 ◯光華日月に象れり 光華こうかは通常「ひかりうるはしきこと」とくんじ、御身おんみ高尙こうしょうとくそなへさせられてゐる形容として使用されてゐる。『書紀しょき』にこの句が天照大御神あまてらすおおみかみの形容とされてゐるのは誰も知つてゐよう。御德おんとくの明らかなことが太陽又は月と等しい意、日月じつげつかたどつて「めい」といふ字が生じたやうに、光彩こうさいの輝かしい場合に日と月とを比較に持つてるのは、漢文かんぶん特有の成句法せいくほうである ◯長く駕き きは御親征ごしんせいあそばすこと、長い間諸方を御親征ごしんせいされる ◯遠く撫で 遠方の者がふうしたつて歸服きふくするのをよく治められる意 ◯横に都の外に逸で よこにはこの場合、積極的な意味はない。皇都こうと以外に御親征ごしんせいあられて天下を平定された意 ◯區域 國中くにじゅうのこと ◯瑩鏡 寶石ほうせきや鏡をみがいてくもりのないやうにすることで、國中くにじゅうせいして不服從者ふふくじゅうしゃの根をつ意 ◯垠なきに充ち塞る 大御威おおみいずが地上のあらゆる方面にまで及ぶ意 ◯九垓 がいは國の極みの意で、九ほうの國の極み、すなわ國中くにじゅう全部 ◯八表 八ぽうの極めて遠いはてすなわち土地のある限りの意 ◯禮を制めて これはのちの「がくして」とついするので、人心じんしんを統治者がやわらげるのには禮樂れいがくを中心とするといふ儒敎じゅきょう思想である。社會しゃかい的に上下の區別くべつを正しく守ること ◯成功 普通「いたはりをなすこと」とくんじてゐる。人民の心から統治者にふくするやうにさせる意 ◯樂を作して 平和な時代を享樂きょうらくする唱歌しょうか及び舞踊ぶようのこと ◯治定を彰す 國家が治まり人心じんしんが安定することを具體的ぐたいてきに見せる ◯福應へ 禮樂れいがくが正しく盛大となればあらゆる幸福こうふくが出現する意 ◯允に臻りて 一ぽんには「しん」を「」とある。天皇を中心としてそこに四方からあつまること ◯祥慶往歳に符合へり 祥慶よろこびすべ目出度め で たく理想的な意、往歳むかしは昔の申し分ない世の中、符合か なへりは一致すること、昔の申し分のない世の中の樣子ようすと、少しもかわらない程の幸福こうふくあつまつた意味である。〔註二〕參照 ◯味張 大河內おうこうちあたい味張あじはりのこと、何故なにゆえれにたいして本勅ほんちょくたまはつたかに就いては、〔註三〕參照 ◯率土 國內こくないの意 ◯幽微 地位身分が共に低い意 ◯王地を惜み奉り 天皇の土地を理由なくおしんで奉還ほうかんしないこと ◯使 皇室の御使者おししゃすなわ勅使ちょくし ◯輕しめ背けるか 輕視けいししてその命にしたがはないのか ◯郡司 これは國造くにのみやつこの意だと一般に言はれてゐる。

〔註一〕顯號を建て 我國わがくに所謂いわゆる武威ぶ いだけを用ゐる侵略的國家でなく、文武ぶんぶ一致の思想で養はれた國であることを示すもので、王道のじついにしえから考へられてゐた證據しょうことなるのである。

〔註二〕祥慶往歳に符合り この部分までが本勅ほんちょくに於いては序文となつてゐる。ゆえ支那し なの古典から引用した句が多く、全體ぜんたいを貫く思想が儒敎味じゅきょうみびてゐる。儒敎じゅきょうと日本思想との關係かんけいは、上代じょうだいに於ける我が詔勅しょうちょくを中心として再考される餘地よ ちがあらう。

〔註三〕味張 『安閑紀あんかんき』には元年うるう十二年に突然味張あじはりの名が出て前文とつづかない。ゆえにこれは當然とうぜん元年七月のつづきと見なければなるまいとはれてゐる。元來がんらい天皇には皇太子がましまさなかつた。大連おおむらじ大伴おおとも金村かなむらなどがこれを憂ひ、皇后のほかに三人のきさきたてまつつたが、それでも御子み こは出來ないので、遂に皇后の御名み なを後世にのこすために一定の良田りょうでんえらんで皇后の御名み なをつけることにした。この時えらばれた田地でんちの所有者が大河內おおこうちあたい味張あじはり(一名は黑梭)だつた。勅使ちょくしがこのよし味張あじはりに告げると、味張あじはりは自己の良田りょうでんかみ沒收ぼっしゅうされるのをおしんで、「この田地でんちは一見非常に良田りょうでんに見えますが、じつは少し天氣てんきつづくとあがり、雨が多いと一ぱいの水潦みずたまりになつて、骨折りだけの收穫しゅうかくるのに困難です。おかみに差上げたとしても何のえきもないでせう」とあざむいて申し上げた。勅使ちょくしはその事をそうすると、うるう十二月に至つて本勅ほんちょくが下されたのである。勅中ちょくちゅうに「今後國造くにのみやつこに任じない」とあるのは、永久に出世する道が失はれることになるので、味張あじはりふるあがつて罪をしゃし、末長く獻上物けんじょうもつたてまつることにつてその罪を許された。以上『安閑紀あんかんき』の記事を了解すると、本勅ほんちょくむねを理解出來るであらう。

〔注意〕大化たいか改新かいしん以前に於ける我國わがくにの土地制度に就ては私有制であつたと主張する者、共有制だつたと主張する者があつて未だ定說ていせつはないが、大體だいたい、私有制論者が多いやうである。ただし私有制といつてもかみに皇室がこれを統治あそばされてゐる關係かんけい上、絕對ぜったいの私有ではなく、今日こんにち同樣どうよう相對そうたい的なものであつた。したがつて味張あじはり朝命ちょうめいそむいた罪は明らかに罰されなければならない。『安閑紀あんかんき』に「つみ萬死ばんしあたれり」と味張あじはりしゃしてゐるのは當然とうぜんである。又同紀どうきにこの事件を以て「永く鑒戒かんかいとなさむ」とあるのを見れば、當時とうじ皇威こういが國民のこの種の罪を罰するのに十分威力があつたことも判明する。しかし、天皇御仁慈ごじんじは罪をいた味張あじはりを許されたのであつた。

【大意謹述】土地のつづく限り、國王の領土でないところはなく、天のつらなつてゐる下は何處ど こへいつても國王の所有地でないものはない。ゆえに過去に於ける代々の天皇がたは見事な德行とっこうを建て、立派な御名み なを後世にのこされた。歷代れきだい天皇御德おんとくは天地と比較される程ひろく大きく、日月じつげつに劣らない程の光輝こうき發揚はつようしてをられる。長い間御親征ごしんせいつづけられ、遠方の者を皇威こういふくして歸順きじゅんせしめられた例も少くない。皇都こうと以外の場所にみずから出られて、統治區域くいきを平定し、無限に皇威こういを張られた例もある。以上の天皇方に時代には、國の極みまでおごそかに皇室の御支配地となり、土地のある限り御稜威み い ずは光り輝いた。かうして社會しゃかい上下の地位を正し、人民を悅服えっぷくさせ、平和を享樂きょうらくする唱歌しょうか舞踊ぶようを作つて、國は治まり民心みんしんは定まつたのである。だからすべての幸福こうふくが一つ所に集まり、上古じょうこ聖人せいじんが統治されたと同じ目出度め で たさが地上に再びあらはれたのである。今、なんじ大河內おおこうちあたい味張あじはりは身分のいやしい農民の頭株あたまかぶでしかない。それにもかかわらず、勅使ちょくしなんじの所有地の一部を御料地ごりょうちとすべきむねを告げるとぐに天皇へ土地を奉還ほうかんする事をおしみ、勅使を輕視けいしして、虛言きょげんを吐き、ちんの旨にしたがはなかつた。今後、味張あじはり國造くにのみやつこに任命しないよしを早速味張あじはりにまで告げよ。

2 勸農のため池溝を開くの詔 崇神天皇(第十代)

勸農かんのうのため池溝ちこうひらくのみことのり(六十二年七月 日本書紀

農天下之大本也。民所恃以生也。今河內狭山埴田水少。是以其國百姓怠於農事。其多開池溝、以寬民業。

【謹譯】のう天下てんか大本たいほんなり。たみたのみてもっくるところなり。いま河內かわち狭山さやま埴田うえだみずすくなし。これもっくにの百せい農事のうじおこたれり。さわ池溝ちこうりて、もったみぎょうひろめよ。

【字句謹解】◯ くんずるのが例で、はたを作る意とされてゐる。水田は南方文化がもたらした農業上の一改革であつたが、その性質上高地こうちには手數てすうをかけなければ利用出來なかつた ◯天下の大本なり 天下の人々が生活するに就いて根本となるものである。この意はこれにつづく「民のたのみて以てくる所なり」とあるので分明わ かる ◯民の恃みて以て生くる所なり 天下の人々は農產物のうさんぶつたよりにして生活してくことが出來る意 ◯河內狭山 宣長のりながの『古事記こ じ きでん』には、『和名抄わみょうしょう』を引用して、河內國かわちのくに丹比郡にひごおりにある狭山郷さやまごう佐也萬さ や ま―としてゐる。『河內志かわちし』には、「丹南郡になみぐん狭山池やまいは、狭山村さやまむらにあり。錦部郡にしきべごおり天野あまの小山田おやまだの二けいここたまりて池をなす。周𢌞まわりばか云々うんぬん永祿中えいろくちゅう安見やすみ美作守みまさかのかみなる者かさねておさむ。慶長中けいちょうちゅう片桐かたぎり東市正とういちのしょうつて修補しゅうほくわふ」と見える ◯埴田 田地でんちのこと ◯多に池溝を開りて 狭山さやまの池もこの時に開かれたので、そのにも多くの池溝ちこうを堀りたもうたこと。〔註一〕參照 ◯池溝 くんじてある。灌漑用かんがいようの貯水池のこと ◯民の業を寬めよ たみぎょうとは農事のうじのこと、ひろめよとは現在以上に自由におこなふ意。

〔註一〕多に池溝を開り 『書紀しょき』にしたがへば崇神すじん天皇の開かれた池溝ちこうは、この狭山池やまいほか依網池よなみいけ(河內國丹比郡)・苅坂池かりさかいけ(所在未詳)・反折池さかおりいけ(所在未詳)があり、いで卽位そくいされた垂仁すいにん天皇高石池たかしいけ(和泉國泉北郡)・茅渟ちぬいけ(和泉國泉南郡)・狭城池さきいけ(大和國生駒郡)・迹見池とみいけ(大和國磯城郡)を開き、諸國に八百池溝ちこうを開かしめたもうた。

〔注意〕前詔ぜんしょうの『船舶せんぱくつくるのみことのり』と共に人民の幸福こうふくに重きを置かれた御仁慈ごじんじの程をはいたてまつる。「のうは天下のだいなるもとなり」は古今を通じての眞理しんりで、如何い かに物質生活上享樂きょうらくを多く受ける現在の我々でも、食糧しょくりょうの一ぱんは結局農民の手で造られたものを材料としてゐる。まして當時とうじにあつては文字通り「民のたのみてもっくる所」であり、國民の生活と農業とは一そう密接な關係かんけいがあつた。

【大意謹述】農業は人間生活の根本となるもので、國民はそれに手賴た よつて始めて生活出來る。現在、河內かわち狭山さやまにある田地でんちは常に水不足のため、その地方の農民は自棄じ きして農事のうじに一こうせいを出さなくなつてしまつたと聞く。これは決して喜ばしいことではない。ぐに狭山さやまを始め諸地方に灌漑用かんがいようの池を多く掘つて、國民が農業を自由にこころよいとなめるやうにしなければならない。

【備考】本詔ほんしょうによつて拜察はいさつせられるやうに朝廷では、積極的に農業を發達はったつせしめる方針を始終しじゅうられた。そのため多く池を作り、みぞうがつことを命ぜられたのである。垂仁すいにん天皇また諸國に命令を下して、池溝ちこうを開かしめたまひ、仁德にんとく天皇山城やましろ河內かわち攝津せっつ地方の開墾かいこんに努められた。したがつて池溝ちこうの修理は、地方官に取つて、大切な任務の一つとせられたくらいである。

 けだ我國わがくにでは神代かみよから農業傳說でんせつが多く、早くから⻝料しょくりょう上、農業を重んじた。身體からだから諸々もろもろ種子た ねを出した保⻝神うけもちかみの話、天照大御神あまてらすおおみかみ天邑君あまのむらきみに命じて、いね種子た ね天狭田あめのさなだ及び長田おさだかしめられた話などいろいろある。流石さすが豐葦原とよあしはら瑞穗國みずほのくにだ。當時とうじ、主として栽培せられたのは、奥津御年おきつみとし晩熟ばんじゅくするゆえかくふ―と呼ばれたいねである。その栽培は、神代かみよに始まり、稻榖とうこくつかさどかみとして、御年神みとしのかみがあつた。古い傳說でんせつうちには、むぎ大豆だいず小豆あずきひえあわなどの名が出てゐるから、あるいは少しは栽培されたかも知れないけれども、多くは水田耕作に適するいねだつた。けだむぎなどは陸田りくでん耕作に適し、すぐに簡易におこなはれがたいか、水田耕作となると、割合に行はれやすい。その結果、稻作いなさくに主力を注ぐ事となつたものと思はれる。

 それらの日、農具として、一番、重んぜられたのはくわだつた。『仁徳紀にんとくき』に「許久波こ く わ」『安閑紀あんかんき』に『钁丁くわよぼろ』とあるのを見ても分明わ かる。「許久波こ く わ」は小さいくわとも、木製のくわともはれてゐる。それからすきくわいで大切にされた。『雄略紀ゆうりゃくき』には、これ那須か な す きと呼んでゐる。からすきは牛の力を用ゐるもので、これもまた有用ゆうようとせられた。そのほか馬杷うまぐわうすかまみのなどもあつた。かの牛馬ぎゅうばが農業の手傳てつだひに用ゐられたのは、すこしくのちの事である。要するに、當時とうじは、農業本位の時代で、榖物こくもつ豐熟ほうじゅくせんことを始終しじゅうかみいのり、旱天かんてんつづくと、犠牲いけにえを神に捧げて、降雨をうた。したがつて勸農かんのうといふことが、政治上、最も大切とせられたのは、當然とうぜんの事である。これいで力を注いだのは、工藝こうげい發達はったつといふことにあつた。すなわち商業に先立つて、第一に農業が進み、それから工業が伸びたといふ順序である。

1 航海の進歩を計るため船舶を造るの詔 崇神天皇(第十代)

航海こうかい進歩しんぽはかるため船舶せんぱくつくるのみことのり(十七年七月 日本書紀

船者天下之要用也。今海邊之民、由無船以甚苦歩運。其令諸國、俾造船舶。

【謹譯】ふね天下てんか要用ようようなり。いま海邊うみべたみふねなきにりてもっはなは歩運ほうんくるしむ。諸國しょこくれいして、船舶せんぱくつくらしめよ。

【字句謹解】◯天下の要用 交通上天下の人々にとつて必要くべからざる器具である事。〔註一〕參照 ◯歩運に苦しむ 人間の交通及び貨物の運漕うんそうに不便であること ◯船舶を造らしめよ 本文ほんもんれば最初に船舶せんぱくを造つたのはこの時のやうに考へられるが、すで文獻ぶんけん上からも船舶せんぱくは『神武紀じんむき』に見え、考古學こうこがく上からも古代の船舶せんぱく神代かみよから存在することが明らかなので、造船のはじめではなく、諸國にれいを下して船舶せんぱくを造らしめた最初だとしなければならない。〔註二〕參照

〔註一〕天下の要用 現在、我々の生活にとつて船舶せんぱくじつに重要であるものの、當時とうじわずかに皇都こうとを中心とした四どうの一部が四どう將軍しょうぐんの派遣によつてひらけただけで、一般に交通といへば、船舶せんぱくをかりなければ何處ど こへもかれなかつた。神武じんむ天皇御東征ごとうせい瀨戸せ と內海ないかい航行こうこうして大和やまとられたのを考へてもこの關係かんけいは理解出來る。陸地の交通がひどく困難だつた時代のことを考へると、本詔ほんしょうは、のちに明治時代に鐵道てつどうが各地に設けられて交通上多大の便宜べんぎあたへられたやうに、交通關係かんけいを助けられた大御心おおみこころのほどがはいせられるのである。

〔註二〕船舶を造らしめよ 諸書しょしょには天皇の十四年に伊豆國いずのくにから船舶せんぱくたてまつつたことが見える。が、『大日本史だいにほんし』には「未だ何にれるかを知らず」とつてゐる。

 船が神代かみよから存在したことは、記紀き きによつて、明白である。海國かいこく日本では、船舶せんぱく讃稱さんしょうする傾向が、神代かみよからあつた。浮寶うきたから岩舟いわふね速鳥はやとりなどがそれだ。浮寶うきたからは、この上もない水上の寶物ほうもつといふ意で、岩舟いわふねは、舟の堅固けんごさをあらはしたのである。速鳥はやとりは、その快速力を歎賞たんしょうした言葉と思はれる。また材料の上から、舟の種類を區別くべつして、いろいろの名稱めいしょうがあつた。大體だいたいにおいて、古代の舟は、刳木舟くりきぶねを以て、共通の形式とせられ、蘿摩船かがみぶね瓠船ひさごぶねなどといふのも、刳木舟くりきぶねの別名にほかならない。わにかめと呼んだのも、それらの舟のことである。それから葦舟あしぶねといふのは、あしつかねて作つたいかだのことでなからうかともはれてゐる。また刳木舟くりきぶねの內外に赭土そほにを塗つたのを埴舟はにぶねしょうしたさうで、『萬葉集まんようしゅう』中の赤曾保舟あけのそほぶねとは、埴舟はにぶねのことと思はれる。かく埴土はにつちを以て舟を塗つたわけは隙間の穴をふさぎ、材木の腐朽ふきゅうを防ぎ、裝飾しょうしょくともなつたからである。

〔注意〕崇神すじん天皇時代には、國史こくし上、注目すべき事蹟じせきが多い。その中で重要な詔勅しょうちょくは、左の如くである。

(一)群卿ぐんけいりょうに下し給へるみことのり(四年十月、日本書紀)(二)人民をこう課役かやくするのみことのり(十二年三月、日本書紀)(三)卜災ぼくさいみことのり(七年二月、日本書紀)は『神祇じんぎ佛敎ぶっきょう篇』に、(四)四どう將軍しょうぐんに下し給へる詔(十年十月、日本書紀)は『軍事外交篇』に、それぞれ謹述きんじゅつしたので、本篇に於いては、本詔ほんしょう及び(五)池溝ちこうひらくのみことのり(六十二年七月、日本書紀)を奉掲ほうけいして謹解きんかいした。

 本詔ほんしょうは十七年秋七月丙午ひのえうまついたちくだされたもので、『書紀しょき』には「冬十月、始めて船舶せんぱくを造る」とある。ただし、これが製造の最初のものでないことは、〔註一〕に說明せつめいした。

【大意謹述】船舶せんぱくは天下の人々にとつて非常に必要なものである。しかるに現在、海邊かいへんに居る民衆は、船がないために人間及び貨物の交通上、大きい不便を感じてゐる。ゆえちんはこの際、諸國にれいし、船舶せんぱくを多く造らしめたい。

【備考】當時とうじ、諸國にれいして、船舶せんぱくを造らしめたのは、やはり、刳木舟くりきぶねであつたらしい。その後に及び、兩枝船ふたまたぶねが出來たのである。それは垂仁すいにん天皇の時代に始つたやうだ。神功じんごう皇后こうごう征韓せいかんの際は、刳木舟くりきぶね兩枝船ふたまたぶねとを併用せられてゐたらしい。元來がんらい刳木舟くりきぶねは細長くて、幅がひろくない。兩枝船ふたまたぶねは、そのけつを補ひ、一かん兩分りょうぶんした大樹たいじゅを骨格と見立てて、これに板を張つたもので、根幹をへさきとし、兩枝ふたまたを左右のふなべりとした。ここ船舶せんぱく製作上の一進歩を示したのである。

 元來がんらい日本にっぽん海國かいこくであるから、海上かいじょうに於ける活動は、餘程よほど早くから始められた。朝鮮との交通は、神代かみよから始り、相當そうとう往來おうらいしげく行はれたらしく思はれる。それについて、航海こうかいかんする知識も進み、神功じんごう皇后こうごうが持つてをられた潮涸しおひる潮滿しおみつといふ寶物ほうもつ新羅しらぎ日矛ひぼこ王子おうじ携帶けいたいして日本にっぽんたといふ振風かぜふり振波なみふり切浪なみきり切風かぜきりといふ神寶しんぽうなども航海こうかいかんする知識の一部を示す器具・機械のたぐひでなからうかと推想すいそうするせつもある。應神おうじん天皇の時代に、大船たいせんを作り、それを「枯野か ぬ」としょうした記事もあるから、崇神すじん天皇の時代のみならず、造船は、歷代れきだい天皇が特に奬勵しょうれいせられた事業であらう。

大日本詔勅謹解5 政治經濟篇 例言

例言

一、本篇ほんぺん謹載きんさい詔勅しょうちょくおおむね特に史的してき事實じじつを背景としてゐるので、その事を知得ちとくする必要がおおいにある。このてんは、特に〔註 〕及び【備考】の欄內らんないで、成るべく要領よく說明せつめいして置いたが、いたらぬところは寛恕かんじょひたい。

一、大化たいか革新かくしんについての詔勅しょうちょくは、相當そうとうにあるが、建武けんぶ中興ちゅうこうについては、ほとんどこれをはいすることが出來ぬ。いかにも遺憾いかんではあるが、むをぬ。

一、日本にっぽん政治史及び經濟けいざい史上、江戸時代は最も重要な時期であり、鎌倉・室町時代これぐのであるが、當時とうじ武家專制せんせいの世の中のために、歷代れきだい天皇の政治・經濟けいざい上の御思召おんおぼしめしほとんはいすることが出來ぬのは最も殘念ざんねんばんである。が、これ又むをぬ事と諒承りょうしょうありたい。

一、慶應けいおう三年十月に明治天皇さつちょうげいぱんに下された討幕とうばく密勅みっちょくは有名であるが、普通、詔勅しょうちょく集に謹載きんさいせられてをらぬので、本書においてもまたこれ拜載はいさいしなかつた。

大日本詔勅謹解5 政治經濟篇 序言

序言

 明治以來いらい日本にっぽんの政治・經濟けいざいは、著大ちょだいの飛躍、進展をしたが、昭和につて以來いらいようや積弊せきへいのために行詰ゆきづまつてた。思ふに、古代から王朝時代にかけて、天皇御親政ごしんせいの時代には、綱紀こうき張り、皇權こうけん振ひ、一くん萬民ばんみんのもとに經世けいせい愛民あいみんじつあがつた。すなわ產業さんぎょう振興しんこう及び道德どうとく振作しんさに力をつくされ、社會しゃかい政策・救貧きゅうひん政策などにおいてもまた天皇思召おぼしめし大體だいたいにおいて實現じつげんされた。「においては君臣くんしんじょうにおいては父子ふ し」とおおせられた意味があらはれてゐる。

 ところが、藤原氏政權せいけんを左右するに及び、ようや天皇思召おぼしめしさえぎりまゐらせ、更に武家の手によつて武門ぶもん政治が確立すると、天皇御精神ごせいしんのあるところを政治・經濟けいざいの上に發揚はつようせられる機會きかいほとんどなくなつた。したがつて安德あんとく天皇以後、仁孝にんこう天皇御代み よに至る迄、政治・經濟けいざい上、天皇御意ぎょいそんするところを知るによしなく、その詔勅ごしょうちょくはいすることが出來ないのは、そのめである。ところが、孝明こうめい天皇の時代にるに及んで、內憂ないゆう外患がいかんの加はるにつれ、無能な幕府が失政に失政を重ねて、尊王そんのう攘夷じょういの叫びが猛烈にあがると、天皇は深く宸襟しんきんなやませられ、ここにはじめて國事こくじについて、度々叡慮えいりょそんするところを詔勅しょうちょくの上に表示せられるやうになつた。我等われらは、かくして、天皇御思召おんおぼしめししたしく詔勅しょうちょくの上に拜誦はいしょうすることが出來る事になつたのである。

 それに明治時代にると、皇政こうせい維新いしんと共に、明治天皇御親政ごしんせいのもとに、政治・經濟けいざいいちじるしい進歩をした。在來ざいらい動脈硬化おちいつてゐた舊幕政きゅうばくせいのために行詰ゆきづまつた政治・經濟けいざいは四みん平等びょうどう實施じっしと共にその面目めんぼくを一新し、立憲りっけん政治の確立、商業上の自由な進展等により、空前の盛觀せいかんていするに至つた。畢竟ひっきょう天皇御親政ごしんせいにより、建國けんこく精神せいしん宣揚せんよう皇道こうどう發揮はっきと共に經世けいせい愛民あいみんじつげさせらるるに至つたからである。

 大正・昭和の時代においては、皇室におかせられて明治天皇鴻謨こうぼのあとを受けて、更に一そうの進展をすべく、大正天皇御精勵ごせいれい今上きんじょう陛下の御英邁ごえいまいにより、著々ちゃくちゃくあゆみを進められててある。が、政治方面に間接・直接の關係かんけいを持つ政黨人せいとうじんが、ようやくその使命を忘れ、吏人りじんうちにも任務をおこたるものがあつて政黨人せいとうじんはすべてを黨利とうり黨略とうりゃくによつて決し、吏人りじんの一ぱん私門しもん私家し かを目安として政務にあたるが弊害へいがいしゅつ天皇正大せいだい御精神ごせいしん遮斷しゃだんしまゐらせた傾きが多い。それに實業じつぎょう方面の人々の中にも兎角とかく自家じ か本位ほんいに行動して、公利こうり公益こうえき無視む ししようとするの風潮がようやいちじるしい。このてんは、特に國民一般の猛省もうせいし、自奮じふんしなければならぬところで、今や國民は全力をげて政黨せいとうの腐敗を一掃し、吏人りじん墮落だらくはいし、實業じつぎょう界の廓淸かくせいあたらねばならぬ重大時機に迫られてゐる。

 し政治方面・實業じつぎょう方面の人々が、國家本位に建國けんこく精神せいしんに目ざめ、皇道こうどう深義しんぎたいし、それを土臺どだいとして、政治・經濟けいざいの上に眞摯しんしな改革を加へるならば、日本にっぽんここ息詰いきづまつた狀態じょうたいから更生こうせいし、新しい生命と新しい希望との上に長く生きてゆくことが出來よう。今、歷代れきだい天皇の政治・經濟けいざいについての詔勅ごしょうちょくはいする我等われらは、このてんに十分の考慮を重ねて、聖旨せいしそんするところをつつしんで奉體ほうたいせねばならぬと思ふ。

  昭和九年四月     高須芳次郞 謹識