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10 諸寺官治たるべからざるの詔 天武天皇(第四十代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

諸寺しょじ官治かんちたるべからざるのみことのり(九年三月 日本書紀

凡諸寺者、自今以後、除爲國大寺二三以外、官司莫治。唯其有⻝封者、先後限三十年、若數年滿三十則除。且以爲、飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺、而官司恒治。復嘗有功、是以猶入官治之例。

【謹譯】およ諸寺しょじは、自今じこん以後い ごくに大寺だいじたるもの二三をのぞ以外いがいは、官司かんしおさむることなかれ。⻝封じきふあらむものは、先後せんご三十ねんかぎり、としかぞへて三十に滿たばすなわのぞけ。以爲お もふに、飛鳥寺あすかのてら司治つかさのちあずかるべからず。しかれどももとより大寺だいじとして、官司かんしつねおさめき、かつこうあり、ここもっ官治かんちれいれよ。

【字句謹解】◯國の大寺 一こくすべてから大規模な寺院として認められてゐるもの ◯官司治むること莫れ 官司かんしは朝廷の役人の意、ここでは朝廷で多くの寺院の負擔ふたんをいとひ、寺院の經濟けいざい國庫こっかから區別くべつさせられたのである ◯⻝封 親王しんのう以下諸臣しょしん位階いかい官職かんしょく勳功くんこうおうじてたま民戸みんこで、ここではそれが寺院にぞくするものを指したと見られる。寺院經濟けいざいおのおの獨立どくりつさせるために、⻝封じきふを三十年と限られたのである ◯嘗て功あり これは弘文こうぶん天皇天武てんむ天皇との御衝突ごしょうとつの祭、天武てんむ側に立つて働いたことがあるのを指したもの。

【大意謹述】各國に散在する寺院は、今後我が國の大寺だいじとして誰もが認める二三を除いたほかは、朝廷の役人に管理させないことにする。ただしその內部に民戸みんこを所有してゐる者は、たまはつた時から三十年間を有效ゆうこう期限として計算して三十年となつた時から、その效果こうかはないものと定める。更に考へるのに、飛鳥寺あすかのてらは朝廷の役人が管理する範圍はんいには入らないやうであるが、今まで大寺だいじとして治めてゐたこともあり、その上かつ官軍かんぐんに味方した功勞こうろうもあるので、この際、依然いぜんとして、特に役人が治める方の例に入れてよからう。

【備考】思ふに、天武てんむ天皇は、政治改革に伴ひ、經濟けいざい上の整理にも心を注がれた結果、ここ諸寺しょじ官治かんちをやめることとされたのであらう。官治かんちとなれば、寺に附屬ふぞくする費用一切を政府で負擔ふたんしなければならない。ところが、推古すいこ天皇の時、有力な寺院がもう四十六ヶのぼつてゐたとあるから、この方面の經濟けいざい支持は、却々なかなか困難だつた。左樣そ うした事情のもとに、諸寺しょじ官治かんちをやめられたものと拜察はいさつする。

9 僧尼を諭し給へる勅 天武天皇(第四十代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

僧尼そうに諭さとたまへるみことのり(八年十月 日本書紀

凡諸僧尼者、常住寺內、以護三寶。然或及老或患病。其永臥狹房、久苦老病者、進止不便、淨地亦穢。是以自今以後、各就親族及篤信者、而立一二舍屋于間處、老者養身、病者服藥。

【謹譯】およ諸びもろもろ僧尼そうには、つね寺內じないじゅうし、もって三ぽうまもる。しかるにあるいおいおよび、あるいやまいうれふ。なが狹房きょうぼうし、ひさしく老病ろうびょうくるしむものは、進止しんし不便ふべんにして、淨地じょうちまたけがる。ここもっ自今じこん以後い ごおのおの親族しんぞくおよ篤信者とくしんじゃきて、一二の舍屋しゃおく間處かんしょて、老者ろうしゃやしなひ、病者びょうしゃくすりふくせよ。

【字句謹解】◯常に寺內に住し 僧尼そうにが一生寺院から離れて俗家ぞっけとどまることを許されなかつたのは、『僧尼令そうにれい』に「およ僧尼そうには寺院にるにあらざれば、別に道場を立て、しゅうあつめて敎化きょうか云々うんぬん」と規定してあるからで、本勅ほんちょくはこの規定をゆるめられたことになる ◯狹房 きょうこう反對はんたい、せまい一室のこと ◯進止不便 平常の立居たちい振舞ふるまい差支さしつかえがある意 ◯淨地 寺院の內部にはほとけが安置されてゐるので淨地じょうちつた ◯篤信者 特に厚く佛敎ぶっきょうを信仰する人々 ◯舍屋 小家しょうかのこと ◯間處 近隣に家のないしずかな場所。

【大意謹述】僧尼そうにことごとくは僧尼令そうにれいの規定通り、平常いつでも寺院の內に生活し、厚くぶつほうそうの三ぽうを守護しなければならないとされてゐる。しかるに中には非常に老齡ろうれいに達した者や、年齡ねんれいはさほでなくとも病氣びょうきに苦しむ者もある。永い間せまい一室にして、老衰ろうすい又は病苦びょうくなやむことの多い者は、平常の動作にも差支さしつかへ、一方からは御佛みほとけのゐますきよい場所をけがすことにもなる。ゆえに今後その人々は親戚の家にくなり、特に佛心ぶっしんにあつい人々に就いて、一二の小屋しょうおく附近ふきんの人々の迷惑にならない場所に建て、そこで老年者はしずかに養生ようじょうし、病人はくすりを快くふくするやうにせよ。

8-3 僧尼に下し給へる詔 孝德天皇(第三十六代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

僧尼そうにくだたまへるみことのり(第三段)(大化元年八月 日本書紀

此十師等宜能敎導衆僧脩行釋敎、要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺、不能營者、朕皆助作。今拜寺司等與寺主、巡行諸寺、驗僧尼奴婢田畝之實、而盡顯奏。

【謹譯】の十よろしく衆僧しゅうそう敎導きょうどう釋敎しゃっきょう脩行しゅうぎょうすること、かならほうごとくせしむべし。およ天皇すめらみことより伴造とものみやつこいたるまでつくところてらいとなむことあたはざるものは、ちんみなたすつくらむ。いま寺司てらのつかさ寺主じしゅとをはいしたるは、諸寺しょじ巡行じゅんこうし、僧尼そうに奴婢ぬ ひ田畝でんぽじつけんして、ことごとあらわもうせよ。

【字句謹解】◯釋敎を脩行する ほとけおしえをよく守つて行爲こういつつしむ ◯ 定められた戒律かいりつのこと ◯伴造 ともは部類の意で、我が上代じょうだいに各部のちょうとして其の部を統轄とうかつした世襲せしゅうの職のこと ◯寺司 寺の役人、これは十を意味する ◯寺主 これは前文にある通り惠妙えみょう法師ほうしを指したものであらう ◯巡行 順序をつけて視察しさつして歩く事。はたしてその人々が本當ほんとうに寺をいとなむだけの經濟力けいざいりょくがあるかいなかを判別させる意である ◯驗して 調査する ◯顯し奏せよ 調査の結果を明瞭めいりょうに申し上げよ。

〔注意〕このみことのりの結果、調査の完成、及び寺院建立こんりゅうの諸事務を取扱ふための役人が必要となつた。ゆえに『孝德紀こうとくき』には來目臣くめのおみ三輪色夫君みわのしこふのきみ額田部連甥ぬがたべのむらじおい法頭ほうとうに命じてゐる。

【大意謹述】今任命した十らは、萬事ばんじ遺漏いろうなく、僧侶そうりょどもを正しい方向におしへ導き、戒律かいりつれないやうに佛道ぶつどうの修業を第一とさせなければならない。又、すべ天皇以下諸部のおさの身分に至るまで、建立こんりゅうした寺が維持出來ず、あるいは作ることが出來ない者があれば、ちんはそれらに經濟けいざい方面の援助をおしまず、完成させるであらう。今寺役人れたやくにん及び寺主じしゅの地位をはいしたものは、ただちに諸寺を視察しさつして𢌞まわり、僧尼そうにすう・寺にぞくする男女の雜役夫ざつえきふ田畝でんぽの多少などを調査し、事實じじつ通りの結果を報告するやうに致すがよい。

【備考】『書紀しょき』によると、孝德こうとく天皇は、「佛敎ぶっきょうとうとみ、神道しんどうあなづりたまふ」として、その一例に生國魂いくくにたま社內しゃないの樹をることを何とも思はれなかつたとしてゐる。左樣そ うしたことはもとより、孝德こうとく天皇の偉大を減ずる所以ゆえんではないが、また公平に見て、あまりに佛敎ぶっきょうを重んじ過ぎられたてんあるを遺憾いかんに思ふのは、ひとり『書紀しょき』の著者ばかりではあるまい。天皇英明えいめいを以てして、佛敎ぶっきょう竝行的へいこうてきに日本固有の神道しんどう宣揚せんようされたならば、天皇の偉大さは一段と輝いたであらうと思ふ。

8-2 僧尼に下し給へる詔 孝德天皇(第三十六代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

僧尼そうにくだたまへるみことのり(第二段)(大化元年八月 日本書紀

小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像・顯揚佛敎、恭敬僧尼。朕更復思崇正敎光啓大猷。故以沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至、寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙而爲十師、別以惠妙法師爲百濟寺寺主。

【謹譯】小墾田宮おはりだのみや御宇あめのしたしろしめす天皇すめらみことみよに、馬子宿禰うまこのすくね天皇すめらみこと奉爲おんためじょう六の繡像しゅうぞうじょう六の銅像どうぞうつくり、佛敎ぶっきょう顯揚けんようし、僧尼そうに恭敬つつしみうやまふ。ちんさら正敎せいきょうあがめ、大猷たいゆう光啓こうけいせむことをおもふ。沙門しゃもん狛大法師こまのだいほうし福亮ふくりょう惠雲えうん常安じょうあん靈雲れいうん惠至え し寺主じしゅ僧旻そうみん道登どうとう惠隣えりん惠妙えみょうもって十となし、べつ惠妙えみょう法師ほうしもっ百濟寺くだらでら寺主じしゅとなす。

【字句謹解】◯小墾田宮に御宇しろしめす天皇 推古すいこ天皇御事おんこと ◯丈六の繡像 一じょうしゃくぬいとりほどこしたる佛像ぶつぞう。これは推古すいこ天皇十三年に出てゐるので、『鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのちょく』(推古天皇十四年五月、日本書紀)を參照のこと ◯顯揚 天下に存在を知らせてひろ宣傳せんでんする ◯恭敬 尊敬する ◯正敎 佛敎ぶっきょうの意 ◯大猷 大道ぢどうの意、ここでは佛敎ぶっきょうの道 ◯光啓 佛敎の道を明らかに擴めること ◯沙門 そう別稱べっしょう ◯狛大法師 こま高麗こ ま大法師だいほうし僧綱そうごうくらい契冲けいちゅうはこのしもに「しっす」といひ、飯田いいだ武郷たけさと福亮ふくりょうの地位身分をあらはしたものとするが、飯田いいだせつしたがへば九人となつて計算が合はない。要するに未だ定說ていせつはない ◯福亮 の人『元亨げんこう釋書しゃくしょ』の力遊部りきゆうぶには、內大臣ないだいじん鎌子かまこ維摩ゆいま吉經きっきょうこうじたことがあると記してある ◯惠雲 舒明紀じょめいき十一年九月には、このそう新羅しらぎ送使そうししたがつてきょうに入つたよしが見える ◯常安 舒明紀じょめいき十二年冬十月のじょうに「大唐だいとう學問僧がくもんそう淸安せいあん」とあるのがこの人ではないかといはれてゐる ◯靈雲 舒明紀じょめいき四年秋八月に、とうは日本の使者犬上三田耜いぬがみのみたすきを送つた。この時靈雲れいうん歸朝きちょうしたとある ◯寺主 僧尼そうに檢校けんこうする役 ◯僧旻 靈雲れいうんと共に歸朝きちょうしたそう大化たいか改新かいしん當時とうじその計畫けいかくにあづかつた人として有名である ◯道登 大化たいか二年に宇治橋うじばしを造つたので著名なそう ◯十師 十人の指導地位にあるそう

〔注意〕本詔ほんしょう百濟くだら大寺おおでらに使者をつかはし、僧尼そうにの全部を集合させて下し給うた。大化たいか改新かいしん佛敎ぶっきょうとの關係かんけいを知る上に重要な文獻ぶんけんたるべき性質を持つてゐる。

【大意謹述】推古すいこ天皇が統治されてゐた時代に、馬子宿禰うまこのすくねは、天皇おんめに一じょうしゃくの表面にぬいとりをしてある佛像ぶつぞう及び同じ高さの銅像を造り、ほとけおしえを世に知らせ、それにつかへる男女なんにょそうをこの上もなく尊敬した。ちんは今後同じく、この正しいおしえ崇拜すうはいし、ほとけ大道だいどうを天下にひろめようと考へてゐる。このゆえそう狛大法師こまだいほうし福亮ふくりょう惠雲えうん常安じょうあん靈雲れいうん惠至え し及び僧尼そうにけんする役にある僧旻そうみん道登どうとう惠隣えりん惠妙えみょうの十人を十として、別に惠妙えみょう法師ほうしをこの百濟大寺くだらのおおでら寺主じしゅに任ずることを命ずる。

8-1 僧尼に下し給へる詔 孝德天皇(第三十六代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

僧尼そうにくだたまへるみことのり(第一段)(大化元年八月 日本書紀

磯城島宮御宇天皇十三年中、百濟明王奉傳佛法於我大倭。是時群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁之敎。而餘臣不信、此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。

【謹譯】磯城島宮しきしまのみや御宇あめのしたしろしめす天皇すめらみことの十三ねんころに、百濟くだら明王めいおう佛法ぶっぽう大倭みかどつたたてまつれり。とき群臣ぐんしんともつたふるをほっせず、しかして蘇我稻目宿禰そがのいなめのすくねひとほうしんじたり。天皇すめらみことすなわ稻目宿禰いなめのすくねみことのりして、ほうたてまつらしむ。譯語田宮おさだのみや御宇あめのしたしろしめす天皇すめらみことみよに、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね考父か ぞふうしたがひて、能仁ほとけおしえあがむ。しかして餘臣よしんしんぜず、てんほろびなんとす。天皇すめらみこと馬子宿禰うまのこすくねみことのりして、ほうたてまつらしむ。

【字句謹解】◯磯城島宮に御宇しろしめす天皇 欽明きんめい天皇御事おんこと ◯十三年の中 欽明きんめい天皇十三年冬十月に百濟くだら聖明王せいめいおう釋迦佛しゃかぶつの金銅像旛蓋はたきぬがさ若干じゃっかん經論きょうろん若干まき國書こくしょとをけんじた事。我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらいとして知られてゐる ◯百濟の明王 百濟くだら聖明王せいめいおうのこと。何故なにゆえ聖明王せいめいおうが我が朝廷へこれらをけんじたかに就いては、本篇の『鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのみことのり』(推古天皇十四年五月、日本書紀)參照 ◯大倭 我が朝廷のこと ◯蘇我稻目 稻目いなめ石川宿禰いしかわのすくね玄孫げんそん高麗こ まの子にあたり、宣化せんか天皇元年に大臣おおおみとなつた。欽明きんめい天皇十三年に百濟くだらから佛敎ぶっきょう傳來でんらいした際、天皇御問おといに答へて之をなりをそうし、遂に佛像ぶつぞうたまはつて小墾田おはりのたみやに安置して觀修かんしゅうを事とし、向原むくはらの家を寺とごうして、向原寺こうげんじごうした。これが我國の佛寺ぶつじの最初のものとされてゐる。時に國內に疫病えきびょうが流行したので、反對者はんたいしゃの主張を天皇は許し給うて佛像ぶつぞうを難波の堀江ほりえに投じ、向原寺こうげんじかれた。同二十三年に大伴狹手彥おおとものさてひこ高麗こ まからかえり、美女及び甲刀かっとう若干じゃっかん稻目いなめに送つた。稻目いなめはそのニ女を妻とし、同三十一年にこうじた ◯譯語田宮に御宇しろしめす天皇 敏達びたつ天皇御事おんこと ◯蘇我馬子 稻目いなめの子で物部氏もののべしを亡し、崇峻すしゅん天皇しいたてまつつた大逆人だいぎゃくにん。〔註一〕參照 ◯考父 亡父ぼうふの意で稻目いねめの事 ◯能仁の敎 佛敎ぶっきょうのこと ◯餘臣信ぜず 敏達びたつ天皇十三年に鹿深臣かふかのおみなどが百濟くだらき、彌勒みろく石像せきぞう及び佛像ぶつぞう各一を持ちかえつたのを馬子うまこうやまひ、群臣ぐんしん反對はんたいにあつた ◯亡びなんとす ほとけほうずる者がないので今にもほろびさうになつた。

〔註一〕蘇我馬子 馬子うまこ稻目いなめの子で、敏達びたつ天皇元年に大臣となつた。同十三年に鹿深臣かふかのおみ彌勒みろく石像一佐伯連さえきのむらじ佛像ぶつぞうを各々百濟くだらから持參じさんして馬子うまここいにまかせて進上すると、馬子うまこ播磨國はりまのくにに居た還俗者かんぞくしゃ高麗慧便こまのえびん、更に司馬し ば達等たちとの娘などを出家させ、日本最初の齋會さいえを開いた。時に司馬し ば達等たちひと齋物いみものの上に舍利しゃりを得たので、馬子うまこ崇佛心すうぶつしんは、それと共にますます深くなつた。ところが、諸國に疫病えいびょう流行するに及び、物部守屋もののべのもりや中臣勝海なかとみのかつみ天皇の許可を得て佛像ぶつぞうき、僧尼そうに禁錮きんこした。時に用明ようめい天皇崇佛すうぶつ御心みこころ深く、二年四月やまいあつくなられると、三ぽうする御志みこころざしあつて守屋もりや勝海かつみ反對はんたいを押しきり、馬子うまこ豐國とよくに法師ほうし內裏だいりたてまつつた。

 いで天皇崩後ほうご馬子うまこ守屋もりやめっし、東漢直駒やまとのあやのあたいこまに命じて崇峻すしゅん天皇たいして大逆だいぎゃくを行はしめ、推古すいこ天皇擁立ようりつした。時に聖德太子しょうとくたいし攝政せっしょうの位にられたが、實權じっけん馬子うまこの握る所となり、新羅しらぎ征伐せいばつ隋唐ずいとうとの修交しゅうこう冠位かんいの設定・曆法れきほう施行しこう國史こくし撰錄せんろくなど、太子たいしと共に力を合せて行つた。太子の薨後こうごすではばかる人なく、非常に增長ぞうちょうして威權いけんほしいままにし、三十四年にこうじた。

【大意謹述】かえりみれば、欽明きんめい天皇の十三年にあたつて、百濟くだら聖明王せいめいおう佛敎ぶっきょうを我が朝廷につたたてまつつた。當時とうじ群臣ぐんしんの間に可否か ひ兩論りょうろんを生じ、大多數だいたすう佛敎ぶっきょう反對はんたいの旨を奏上そうじょうし、蘇我稻目宿禰そがのいなめのすくねだけが崇佛すうぶつの意を示した。そこで天皇は、稻目宿禰いなめのすくねみことのりされ、ひそかにその法をつたへることを許された。敏達びたつ天皇御代み よに、蘇我馬子宿禰そがのうまこのすくね亡父ぼうふ稻目いなめこころざしぎ、ほ一そう佛敎ぶっきょうを尊敬したのである、この時もの一切のしんは信じなかつたので、我が日本から佛敎ぶっきょうほとんど亡びるばかりとなつた。天皇はこの際、特に馬子うまこみことのりして、ひそかにその法をほうずる事を許されたのであつた。

【備考】當時とうじ神道しんどうは國家のもといたる祭祀さいしつかさどり、儒敎じゅきょう社會しゃかい道德どうとくを支配し、佛敎ぶっきょう人知じんち以上の絕對者せったいしゃ思慕し ぼして、それにより安心を人々にあたへる用をなしてゐたから、奈良時代の如く僧侶そうりょの政治的進出もなく、神佛しんぶつ習合しゅうごう本地ほんち垂迹すいじゃくせつもまだ起らなかつた。だから孝德こうとく天皇が、『國司こくし諭さとすのみことのり』(大化元年八月、日本書紀)のうちで「天神てんじんさささしたまひしままに、今、初めてまさ萬國くにぐにを修めむとす」とひ、『東國とうごく國司こくしに下し給へるみことのり』(大化二年三月、日本書紀)に「ちんかみまもりこうむり、つとめて卿等けいらと共におさめむと思ほす」とおおせられ敬神けいしんの意を明らかにされた。同時に『直言ちょくげんを求むるのみことのり』(大化二年二月、日本書紀)では「ちん聞く、明哲めいてつたみおさむるは、かねみかどけて百せいうれえおくちまたに作りて路行みちゆくひとそしりをき、芻蕘すうぎょうせついえども、みずから問ひてしるべとなしたまふ」と明らかに儒敎じゅきょう主義を標榜ひょうぼうされた。ところが奈良朝に至つて佛敎ぶっきょうが政治方面に進出し、僧侶そうりょの意見が國政こくせいを左右するやうになり、一方、本地ほんち垂迹すいじゃくせつなどが神道しんどう純粹性じゅんすいせいみだすことになり、ここに佛敎ぶっきょうは我が固有の精神せいしん破壞はかいするものとし、江戸時代の儒者じゅしゃ、特に國學派こくがくは及び水戸み と學派がくはから攻擊こうげきされるやうになつた。

 公平に佛敎ぶっきょうが我國の文明にあずかつた效果こうかは大きい。それと共に鎌倉時代に日本化された佛敎ぶっきょうは我が國體こくたい論者ろんしゃからも一がいに避難さるべきものではない。又日本人は如何い かなる異國いこく思想をも日本化し、その長所だけをうけれる特殊な才能を有してゐる。江戸時代の國學者こくがくしゃは一概に佛敎ぶっきょうを非難したが、我等は佛敎ぶっきょうが日本文化にあずかつたてんに於て鎌倉時代の日本化せる佛敎ぶっきょう價値か ちを認めるので、必ずしも宣長のりなが篤胤あつたね水戸み と學派がくはの論をままには受けがたい。佛敎ぶっきょうが奈良・平安時代に政治方面をみだし、神道しんどう方面を不純ならしめたことがあつても、我が國體こくたい精華せいかと衝突しない限りみだりに非難するにはあたらぬ。

 佛敎ぶっきょうを公平な原理功究こうきゅうの上から攻擊こうげきしないで、異國敎いこっきょうだとして、又佛僧ぶっそう墮落だらくのことを理由として非難するのは穩當おんとうでない。ただし皇室以外に絕對ぜったい權威者けんいしゃ佛敎徒ぶっきょうとが認めるとの理由で排斥はいせきするのは、一おう正しいといへる。しか左樣そ うしたことは現代にはない。よつて我々は印度いんど佛敎ぶっきょうとはことなつた日本佛敎ぶっきょうの本質―僧侶そうりょまた日本精神せいしんの所有者として佛敎ぶっきょう從事じゅうじすること―を正しく認識し、不當ふとうの非難は避けたいと思ふ。