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7 僧尼を推問するの詔 推古天皇(第三十三代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

僧尼そうに推問すいもんするのみことのり(三十二年四月 日本書紀

夫出家者、賴歸三寶、具懷戒法。何無悔忌、輙犯惡逆。今朕聞、有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼、以推問之、若事實者、重罪之。

【謹譯】出家しゅっけせるものひたふるに三ぽうりて、つぶさ戒法かいほうたもつ。なんむことなくて、すなわ惡逆あくぎゃくおかすべき。いまちんく、そうありて祖父そ ふつと。ゆえあまね諸寺しょじ僧尼そうにつどへて、もっかんがひ、事實じじつならば、おもこれつみせむ。

【字句謹解】◯出家せる者 家を出てそうとなつた者、そうには家はないので、そうとなるには一切の血緣けつえんち切るために、我が身だけで家族から離れなければならなかつた。このゆえ出家しゅっけそうの意となる ◯賴に ただそれのみにの意 ◯三寶 ぶつほうそうと ◯戒法 僧尼そうにに禁ぜられたおこない。五かいあるいは七かい、十かいとして世に知られてゐるたぐいのもの ◯惡逆 長上ちょうじょうを尊敬するのは一般の人々へのおしえであり、特にそうにとつて守らなければならないものだつた。それを犯したので惡逆あくぎゃくふ文字を使用されたのであらう。ぎゃくは道理にさからつたものの意 ◯毆つ 何か物でなぐること。ここでは斧でなぐつたのである ◯推へ問ひ 事實じじつであるかいなかを問ひたしかめる ◯重く之を罪せむ これは僧尼そうに全體ぜんたいにも相當そうとうの罪を加へようとされたこと。

〔注意〕『推古紀すいこき』には、このみことのり後文こうぶんに、「すなわ惡逆あくぎゃくそう及び諸尼しょにならびにまさつみせられむとす」とある。祖父そ ふを斧でなぐつたといへば、その結果祖父そ ふは死に至らなくても、明らかに殺人罪しか尊上そんじょう殺人にあたり、特に僧侶そうりょが加害者とあつては、問題は佛敎ぶっきょう全體ぜんたいに及び、盛大になつた佛敎ぶっきょう衰運すいうんおもむかせる結果とならうとも考へられる。ゆえ本詔ほんしょうは日本佛敎ぶっきょう史上に今まで注意されてゐない重大事件で、百濟くだら觀勒かんろく上書じょうしょして次のやうに哀願あいがんしてゐる。「佛法ぶっぽう印度いんどから支那し な傳來でんらいして三百年、支那し なから百濟くだらに來て百年、それから日本につたはつて百年をりませぬ。この短い間に僧侶そうりょの全部がすべて正しい行動のみを致すとは考へられぬではありませぬか。佛戒ぶっかいに慣れないために今囘こんかい惡逆あくぎゃくを犯した者を出したのであつて、そう全體ぜんたいにその罪が及ぶとなれば、日本の僧尼そうには今後一日もやすんじて生活出來ないことになります。どうかこのてん御叡慮ごえいりょれられて、惡逆あくぎゃくを犯した以外の僧尼そうにを全部ゆるし、罪に問はないで下さいませ。これは非常な功德くどくとなりませう」と。天皇はその結果、觀勒かんろくげんれられ、今後僧尼そうにの行動を監督するために、僧正そうじょう僧都そうづを任命し、この事件は落著らくちゃくしたのである。なほ、當時とうじ日本に佛寺ぶつじは四十六所、そうは八一六人、尼は五六九人、合計一三八五人あつたと本紀ほんぎに記してある。

【大意謹述】一たい血緣けつえん執著しゅうちゃくことごとく去つて出家した者は、ただ一心に佛法僧ぶっぽうそうの三ぽう歸依き えし、一定の戒法かいほうを正確に守つてゐるべき筈である。ところが、平素云爲うんいを反省することもなく、惡逆あくぎゃく行爲こういすに至つては、僧侶そうりょとしての價値か ちが全くないと言つてもよろしからう。近頃、一人のそうが斧で祖父そ ふなぐつたとの噂がちんの耳に入つた。そうとしてあるべからざるこの噂を朕は信じてよいものかどうか、迷つてゐる。このゆえ諸寺しょじ僧尼そうにを一度に捕へ、事實じじついなかを調査して、事實じじつであつたならば、犯人は勿論もちろん僧尼そうに一同も相當そうとうに重く處罰しょばつする考へである。

【備考】佛僧ぶっそうに伴ふ弊害へいがいが、最早もはや、この時代から相當そうとう發生はっせいしたことがわかる。一つは性質のよくないものが輕々かるがるしく僧侶そうりょとなり、ただ一身の安樂あんらくを計る目的以外何ものもなかつたことなどが、弊害へいがいみなもとしたものと思はれる。

 今、佛敎ぶっきょう弊害へいがいなるものを分析して見ると、弊害へいがい主因しゅいんは、僧侶そうりょと信者とにあり、皮相ひそう小乘敎しょうじょうきょうにある。大乘だいじょう佛敎ぶっきょうそのものには、少しの罪もなく、缺點けってんもない。ただ本來ほんらいの性質が、絕對ぜったいに個人成佛じょうぶつを目的としてゐるてんだけが國家的でないだけだ。それも日本では、國家化されたとすれば、大乘だいじょう佛敎ぶっきょうには、何ら弊害へいがいかもすべきてんがないとへるであらう。ところが、小乘しょうじょう佛敎ぶっきょうになると、左樣そ うはいへない、方便ほうべん權說ごんせつを主とし、地獄・極樂ごくらくき、假空かくうの不可思議せつが多い。のみならず、因果律いんがりつ惡用あくようして人々を威嚇いかくしたり、飜弄ほんろうしたりする、それも、目的は、人々の成佛じょうぶつにあるが、その影響・感化は、決してよくない。人間を愚昧ぐまいならしめ、臆病ならしめる。ここによし目的はよからうとも、方便・權說ごんせつかえって人間を厭世えんせい的・悲哀的にならしめてゐる。

 ぎに小乘敎しょうじょうきょうと共に、弊害へいがいの有力なみなもとしてゐたのは僧侶そうりょだつた。彼等は、佛陀ぶっだの威力を看板にして、信者を操り、自家の威福いふくすことに專心せんしんしたのである。まこと佛陀ぶっだ本懷ほんかいを知り、その救世きゅうせいの悲願を知るならば、當然とうぜん、三がいしょに甘んじなければならぬ。樹下じゅか石上せきじょうまくらして、水をみ、粗飯そはんきっするの境界きょうがいやすんじなくてはならぬ。淸淡せいたん、水のやうな生活をして、救世きゅうせいの悲願を貫くべきである。ところが、僧侶そうりょの多くは、この事をさず、利慾りよくを主とする俗人ぞくじん以上に、福利ふくりを求め、日夜、それをあさつてやまなかつた。のみならず、享樂きょうらく生活においても僧尼そうに共に惑溺わくできして、佛陀ぶっだの理想を裏切つたのである。ゆえ佛敎ぶっきょう弊害へいがいといつても、大部分は僧侶そうりょ墮落だらくを意味し、大乘だいじょう佛敎ぶっきょうの本質には、何らかわるところも、墮落だらくいんもない。

 以上の如く、佛僧ぶっそう墮落だらくしたのは、一は信者の罪である。當時とうじの信者の多くは、佛敎ぶっきょうの本質を理論的に知つてゐない。大抵たいてい祈禱敎きとうきょうとしての佛敎ぶっきょうを知つてゐるだけとどまつてゐた。したがつて、その祈禱きとう效果こうかを過信する結果、過度に佛僧ぶっそうを優遇し、彼等をして、慢心まんしんして我儘わがままな生活をさしめる上に、あずかつて力があつた。すなわ佛敎ぶっきょうの本質を知つたものは、極少く、佛敎ぶっきょう皮相ひそうを知つて、小乘敎しょうじょうきょう方便ほうべん權說ごんせつにすら歸服きふくし、これを佛僧ぶっそうをすぐに小佛陀しょうぶっだの如く、思ひしたことが、何よりもわるかつた。したがつて、佛僧ぶっそうらは、それをいことにして、いろいろの術策じゅっさくろうし、榮位えいい名譽めいよ・黄金・戀愛れんあい等の不斷ふだん追求者ついきゅうしゃとなり、一種の常習犯となつた。當時とうじ淫祠いんし邪刹じゃさつの如きも、多くは、右の如き理由によつて、出來たのが、後世に及んで、無數むすうとなつたのである。

 かう考へると、大乘だいじょう佛敎ぶっきょうには、何の罪もない。その內容は、幾分、日本國民性と一致しないところを有するとも、立派なものといへる。ところが、小乘敎しょうじょうきょうあまりに方便ほうべん權說ごんせつとらはれために、かえっくすりきすぎて、いろいろの弊害へいがいかもし、光明こうみょう的・前進的な日本國民に哀世あいせい的・退嬰たいえい的な考へを吹込んでしまつた。加ふるに、佛僧ぶっそうの多くは、自己の使命を忘れて極端に俗化ぞっかし、救世きゅうせいの悲願をまるで抛棄ほうきしてかえりみなかつた。かうした僧侶そうりょ巧辯こうべんを信じて淨財じょうざい寄附き ふした信者らも、その弊害へいがいつて來るところを察しないでただ皮相ひそう歸依き えに走つてしまつた。佛敎ぶっきょう弊害へいがいしょうせらるるものの內容を分析すると、大體だいたい、以上の如くである。これを以て、佛敎ぶっきょう全體ぜんたい解釋かいしゃくしようとするのは妥當だとうでない。大乘だいじょう佛敎ぶっきょうの內容の優越したこと、小乘敎しょうじょうきょうなどとことなつて、立派な理論が構成されてゐることを知らねばならぬ。水戸み と學派がくは國學者こくがくしゃらは、この區別くべつを知らないで、一がい佛敎ぶっきょう排擊はいげきしたのは、理論的に見て、ほ不用意をまぬがれなかつたと思ふ。まこと佛敎ぶっきょうを非難せんとならば、大乘だいじょう佛敎ぶっきょうを徹底して研究し、思想・理論の上から周到しゅうとうにそのしか所以ゆえんあきらかにせねばならぬ。

6 神祇を祭るの詔 推古天皇(第三十三代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

神祇じんぎまつるのみことのり(十五年二月 日本書紀

朕聞之、曩者我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祇、周祠山川、幽通乾坤。是以陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祀神祇、豈有怠乎。故群臣爲竭心、宜拜神祇。

【謹譯】ちんこれく、曩者むかし皇祖みおや天皇みかどたちおさめたまへる、てんせぐくまぬきあしして、あつ神祇じんぎいやまひ、周あまね山川やまかわまつりて、はるかに乾坤あめつちかよはす。ここもって、陰陽いんようひらやわらぎて、造化ぞうかとも調ととのふ。いまちんあたりて、神祇じんぎ祭祀い わふこと、あにおこたりあらむや。ゆえ群臣ぐんしんめにこころつくして、よろしく神祇じんぎはいすべし。

【字句謹解】◯曩者 過去を一般に指すもので特定な時代及び時間を意味したのではない ◯天に跼り地に蹐して これは『詩經しきょう』の小雅しょうがに「天蓋てんがいたかしとふも、あえきょくせずんばあらず、地蓋ちがいあつしとふも、あえせきせずんばあらず」に由來ゆらいするので、常に事におそれて輕々かるがるしく身をとりあつかはないこと、天はこの上もなく高いが、それでも肩を丸め身を縮め、地はこの上もなく厚いが、それでも足音のしないやうしずかに歩いて、天地あめつちの神々を尊敬する形容 ◯周く山川を祠りて 天下中にある山や河を全部まつる。これは山には山神さんじんがあり、河には河神かじんが居て、一方は天神てんじんに近く、他方は地神ちじんに近いから、これらをまつるのである ◯幽かに乾坤に通はす 乾坤あめつちは天地の意 まつる人の氣持を天神てんじん地祇ち ぎに通ずる ◯陰陽 ここでは陰陽いんようの意、これが開きやわらぐとは、氣候きこう溫和おんわに四季が正しく循環すること。〔註一〕參照 ◯造化 天地間に於て、生死現滅げんめつしつつ無窮むきゅうつたはる萬物ばんぶつ ◯朕が世 この時代に佛敎ぶっきょうが盛大となつてゐたので、佛敎ぶっきょうの行はれるちんの世の意にとると、この勅書ちょくしょ精神せいしんがよく理解出來る。

〔註一〕陰陽 陰陽いんよう哲學てつがくは『易經えききょう』に詳しくいてある。萬物ばんぶつ陰氣いんき陽氣ようきの中和から生ずるので、萬事ばんじ積極的な陽と消極的な陰とが氣候きこう造化ぞうかの根本となる。したがつて陰陽いんようが開きやわらげば、造化ぞうかは共に調ととのふので、一切の自然・人事現象はこのニの調和・不調和から說明せつめい出來るとされた。

〔注意〕平田ひらた篤胤あつたね本勅ほんちょくに就いて、「みことのりじつ天皇大御心おおみこころから出たもので、聖德太子しょうとくたいし蘇我馬子そがのうまことが、あまりに佛敎ぶっきょう崇拜すうはいに傾いて神祇じんぎ蔑如べつじょしたのを御嘆おなげきになりはっせられたのに相違そういない。この天皇女帝にましましたものの、常に正しい御心みこころを持ちたまうたのは、馬子うまこ葛城縣かつらぎのあがたたまはりたいとうた時に許可されなかつた事でも判明する」との意味を述べてゐる。馬子うまこ上奏じょうそうたいするちょくは、蘇我馬子そがのうまこ葛城縣かつらぎのあがたたまはらむことをそうせる時のみことのり推古天皇三十二年十月、日本書紀)をするので、篤胤あつたねげたのは、右の勅中ちょくちゅうにある、「ちんが世にあたりて、とみあがたを失ひては、のちきみはむ、愚癡たわけなる婦人、天下に臨みて、とみあがたを失へる」云々うんぬんをいつたのである。

 なほ、本詔ほんしょうの前半が殆ど支那し な古典からの文句で構成されてゐること、及び、本詔ほんしょうを下したまうた六日後に「皇太子及び大臣だいじんりょうひきいて、神祇じんぎを祭りうやまふ」と本紀ほんぎにあるのが注意される。

【大意謹述】ちんの聞くところにれば、かつて朕の御祖先ごそせんあたられる天皇がたは、天下を統治するにあたつて、天にたいしてを丸め、地にたいして足音を非常ににする程注意して、愼重しんちょう御態度ごたいどで深く天神てんじん地祇ち ぎうやまひ、天下中すべての山川やまかわまつつて、天地あめつちの神々に深く誠實せいじつの意を捧げられた。そのめに神々も天皇がた御心みこころに感じたまひ、陰陽いんようの二が調和して氣節きせつが正しく溫和おんわで、萬物ばんぶつが理想的に調ととのつたのである。現在は佛敎ぶっきょうが非常に流行してゐる。如何い か佛敎ぶっきょうの盛んなちんが世にも、御祖先ごそせん以來の神々を祭ることを怠つてよからうか、決して怠つてはならない。ゆえに一般の群臣ぐんしんはこのよしを十分に心得こころえ誠實せいじつな心を以て、天地あめつちの神々をはいしなければならない。

【備考】安積あさか澹泊たんぱくの『推古帝論すいこていろん』のうちには、この事にれないで、佛敎ぶっきょう弘通ぐつうに力をつくされたてんのみをげてゐるが、正しい見方ではない。推古すいこ天皇は、勿論もちろん佛敎ぶっきょう勃興ぼっこうを抑へ付けようとはせられなかつたけれども、みことのりにある如く、敬神けいしんの心を失つてはならぬといふことを特に注意し、親しく、實行じっこうすべきを宣言された。ここに深い思召おぼしめしのあることを知らねばならぬ。

5-2 鞍作鳥を賞するの勅 推古天皇(第三十三代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのみことのり(第二段)(十四年五月 日本書紀

今朕、爲造丈六佛、以求好佛像。汝之所獻佛本、則合朕心。又造佛像旣訖、不得入堂。諸工人不能計、以將破堂戸。然汝、不破戸而得入。此皆汝之功也。卽賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田二十町焉。

【謹譯】いまちんじょう六のほとけつくらむとして、もっほとけかたちもとむ。なんじたてまつところほとけためしは、すなわちんこころかなへり。またほとけかたちつくることすでおわりて、どうるることをず。もろもろ工人たくみはかることあたはず、もっまさどうこぼたむとせり。しかるになんじこぼたずしてるることをたり。みななんじこうなり。すなわ大仁たいにんくらいたまふ。りてもっ近江國おうみのくに坂田郡さかたごおり水田すいでん二十ちょうたまふ。

【字句謹解】◯丈六 一じょうしゃくの意 ◯佛の本 佛像ぶつぞうかた ◯心に合へり 非常にに入つた意 ◯旣に訖りて もう出來上つて ◯ 元興寺がんごうじの金堂のこと ◯諸の工人 諸方面の專門せんもんの建築師、大勢がいろいろに考へたが、じょうぶつを入れることが出來なかつたこと ◯大仁の位 冠位十二階の第三位である。〔註一〕參照。

〔註一〕大仁の位 冠位十二階は、推古すいこ天皇十一年十二月に制定されたもので、大德たいとく小德しょうとく大仁たいにん小仁しょうにん大禮たいらい小禮しょうらい大信たいしん小信しょうしん大義たいぎ小義しょうぎ大智たいち小智しょうち區別くべつされる。大仁たいにん大體だいたい三位の地位にあるとしょうされるが、卑姓ひせい鞍作氏くらつくりしにこの位をあたへたのは、相當そうとうの優遇であることがわかる。

〔注意〕本勅ほんちょくは十四年五月五日に降された。最初十三年の夏に天皇は皇太子をはじめ大臣おおおみ・諸王に命じて銅繡どうしゅうじょうぶつを一づつ造らせ、鞍作鳥くらつくりのとり佛工ぶっこうとした。高麗國こまのくにでは日本の天皇佛像ぶつぞうを造られるとつたへ聞いて、黄金三百りょうたてまつつた。これが十四年四月に至つて出來上つて、元興寺がんごうじ(この寺の成立年代は明らかではない。書紀にはここに突然出て來るので、本紀四年十一月に成つた法興寺であるとする者、及び別寺だと主張する者があり一定しないらしい)の金堂にゑることになると、佛像ぶつぞうが金堂の戸よりも高くて入らない。人々はむを得ず、その戸を破つて入れようと一けつした時、鞍作鳥くらつくりのとりは無事の戸を破る事なく堂に入れた。卽日そくじつ落成式をげ、以後每年まいねん四月八日と七月十五日とに盛大な集會しゅうかいを行つた。鞍作鳥くらつくりのとりこうと、祖先そせん佛敎ぶっきょうに致したこうとをがっし、本勅ほんちょくたまわつたと解するのが正しであらう。とりはこの二十ちょうの水田で天皇のために金剛寺こんごうじを作つたとに記してある。なほ本分中の「すなわ大仁たいにんの」云々うんぬん以下は勅文ちょくぶんと考へない學者がくしゃもゐるが、ここでは從來じゅうらいの例にしたがつて置く。

【大意謹述】ちんは現在、一じょうしゃく銅繡どうしゅう佛像ぶつぞうを造らうとして、諸方面から理想的なかたを求めたが、なんじけんじた型がそのまま朕のに入つた。又、なんじの作つた佛像ぶつぞうが出來上つても、元興寺がんごうじの金堂の戸が低くして入れることが出來ない。諸方面の建築にかんする專門家せんもんかが集つていろいろ考へたが、よい方法もなく、遂に金堂の戸を破つて入れようとした。時に汝は、少しも戸を破ることなく見事に佛像ぶつぞうを入れることに成功したのである。これらは全部なんじ功勞こうろうといへる。そこで朕は汝に大仁たいにんの位をたまひ、近江國おうみのくに坂田郡さかたごおりの水田二十ちょうを授けることにした。

【備考】推古すいこ天皇ちょうに日本の佛敎ぶっきょう美術は始めて、燦然さんぜんたる光を放つに至つた。佛師ぶっし鞍作鳥くらつくりのとりが作つたともつたへられる法興寺ほうこうじ金堂のじょう佛像ぶつぞうは後世の修補しゅうほたが、今日こんにち飛鳥あすか大佛だいぶつとして知られてゐる。

5-1 鞍作鳥を賞するの勅 推古天皇(第三十三代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

鞍作鳥くらつくりのとりしょうするのみことのり(第一段)(十四年五月 日本書紀

朕、欲興隆內典、方將建佛刹。肇求舍利時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼。於是汝父多須那、爲橘豐日天皇出家、恭敬佛法。又汝姨島女初出家、爲諸尼導者、以修行釋敎。

【謹譯】ちん內典ないでん興隆お こさむとおもひ、方將ま さ佛刹て らてむとす。はじめて舍利しゃりもとめしときなんじ祖父そ ふ司馬し ば達等たちと便すなわ舍利しゃりたてまつりき。またくに僧尼そうになし。ここいてなんじちち多須那た す な橘豐日天皇たちばなのとよひのすめらみことめに出家しゅっけし、佛法ぶっぽうつつしいやまへり。またなんじおば島女しまめはじめて出家しゅっけして、諸尼しょに導者みちびきとして、もっ釋敎ほとけのみのり修行おこなふ。

【字句謹解】◯鞍作鳥 「くらつくりのとり」は推古朝すいこちょうの有名な佛師ぶっし寺工じこうである。本勅ほんちょくにある如く祖父そ ふ司馬し ば達等たちと、父は多須那た す なで、この一家は我が國佛敎ぶっきょう史上重要な地位を占めてゐる ◯內典 儒敎じゅきょう書物外典げてんといふのにたいして佛敎ぶっきょう書物內典ないでんといつた。これが一てんして佛敎ぶっきょうそのものの意味に使用される ◯佛刹 佛寺ぶつじの意、我が國への佛敎ぶっきょう傳來でんらい經過けいかに就いては〔註一〕參照 ◯舍利 ほとけの骨のこと、佛舍利ぶっしゃりに就いては『魏書ぎしょ』の『釋老志しゃくろうし』に「ほとけの世をしゃするや、香木こうぼくにて、かばねけば、靈骨れいこつ粉碎ふんさいして、大小だいしょうりゅうごとし。てどもこわれず、けどもげず、あるい光明こうみょう神驗しんけんあり、胡言こげんにてこれ舍利しゃりといふ」とあり ◯司馬達等 支那し なから日本に歸化き かした人、我が國最初の佛敎ぶっきょう傳道者でんどうしゃとして著名である。欽明きんめい天皇の十三年にあたり、朝廷で崇佛すうぶつの可否を問題とされたが、民間に佛敎ぶっきょうの行はれたのはそれ以前にさかのぼつて考へられる。現にこの司馬し ば達等たちとなどは、『扶桑ふそう略記りゃっき』にしたがへば、繼體けいたい天皇の十六年に大和國やまとのくに高市郡たけちごおり坂田原さかたのはら草堂そうどうを結んでほとけ禮拜らいはいしたので、時の人々は大唐だいとうの神としょうしたとの意が記してあり、『法華ほっけ驗記けんき』にも同樣どうよう事實じじつを記してゐる。繼體けいたい天皇十六年は、欽明きんめい天皇十三年より約三十年以前で、とにもかくにも、すで大和やまとにまで佛敎ぶっきょうが入つてゐたことは、この文獻ぶんけんで判明しよう ◯舍利を獻りき 司馬し ば達等たちと佛舍利ぶっしゃり馬子うまこけんじ、一同がその不可思議な功驗こうけんに驚いてほとけを信ずるやうになつたことは、『敏達紀びたつき』十三年のくだりにある。〔註二〕參照 ◯多須那 司馬し ば達等たちとの子で出家して德齊とくさい法師ほうしといつた。このことは『崇峻紀すしゅんき』三年のくだりにある。〔註三〕參照 ◯橘豐日天皇 用明ようめい天皇御事おんこと ◯鳥女 司馬し ば達等たちとの娘で十一歳で出家した。『敏達紀びたつき』十三年のくだりにこのよしが記してある。〔註四〕參照。

〔註一〕佛敎渡來の事 我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらい概說がいせつするのには、當然とうぜん支那し な・朝鮮にそれが傳來でんらいした時期をづ考へなければならぬ。後漢ごかん明帝めいていが使者を印度インドつかわして佛敎ぶっきょうを求めたのは皇紀こうき七二五年で、垂仁朝すいにんちょうの頃である。支那し なではその後、三百年程は梵經ぼんぎょう漢譯かんやくにせはしく、支讖しせん(支婁迦讖の略稱)・安世高あんせいこう鳩摩羅什くまらじゅう法顯ほっけん玄弉げんじょう義淨ぎじょうなどの名僧めいそう續出ぞくしゅつして、きょうりつろん譯書やくしょが五千六百かんに及んだ。唐宋とうそう以前に、阿毘あ び達磨だるま(毘曇)・三ろん成實じょうじつりつ涅槃ねはん地論じろん淨土じょうどぜん攝論しょうろん天台てんだい法相ほっそう華嚴けごん眞言しんごんの十三しゅうあつたが、日本に傳來でんらいしたのは、三ろん法相ほっそう成實じょうじつりつ華嚴けごん天台てんだい眞言しんごん淨土じょうどぜんの九しゅうだけである。次に朝鮮へ佛敎ぶっきょう傳來でんらいしたのは、支那し な東晉とうしん時代、國史こくし仁德にんとく天皇御代み よあたり、ぜん秦王しんのう符堅ふけんそう道順どうじゅん高麗こ まつかはし、小獸林王しょうじゅうりんおう佛像ぶつぞう經論きょうろんとを おくつたのに始まる。そののち、十數年すうねんのちに、印度インドそう摩羅ま らなん支那し なから百濟くだらに渡り、越えて三十餘年よねん高麗こ まそう新羅しらぎ傳道でんどうし、三かん(朝鮮)に佛敎ぶっきょうつたはつた。これを日本につたへたのは百濟くだら聖明王せいめいおうである。

 さて、我が國では欽明きんめい天皇十三年が佛敎ぶっきょう傳來でんらいの年であるとされてゐる。が、前述した通り、それは天皇佛敎ぶっきょうの可否を群臣ぐんしんに問はれた年で、約三十年以前の繼體けいたい天皇十六年に大和やまと地方にまでその影響が及んでゐたのであり、民間にはもつと以前から信仰する者があつたことを證明しょうめいする。そののち國史こくしにあらはれたところでは、

(一)欽明きんめい天皇の六年に百濟王くだらおう天皇おんめにじょうぶつを造つた。(二)欽明きんめい天皇十三年に百濟くだら聖明王せいめいおう佛像ぶつぞう經論きょうろん等をけんじた。(三)敏達びたつ天皇六年に百濟くだらから經論きょうろん及び律師りっし禪師ぜんし佛工ぶっこう寺工じこう等をけんじた。(四)敏達びたつ天皇八年に新羅しらぎ佛像ぶつぞうけんじた。(五)敏達びたつ天皇十三年に司馬し ば達等たつとむすめなどがあまとなつた。(六)崇峻すしゅん天皇元年に百濟くだら佛舍利ぶっしゃり寺工じこう瓦工がこう畫工がこうなどをけんじた。(七)崇峻すしゅん天皇三年に司馬し ば達等たつとの子多須那た す ななどが出家した。

などの記錄きろくが見えるが、そのうちで我が思想史上注意すべきは、(二)の欽明きんめい天皇十三年の事件である。

 この年の十月、百濟くだら聖明王せいめいおうが、金銅こんどう釋迦しゃか佛像ぶつぞうはた及びきぬがさ若干じゃっかん經論きょうろんなどをけんじ、書をたてまつつて佛法ぶっぽう弘通ぐつう功德くどくを述べた。その文中には「佛法ぶっぽうは諸法中で最も入り難く、達し難いもので、支那し な聖賢せいけんしょうされる孔子こうし周公しゅうこうのやうな人物でも知らなかつた。この敎法きょうほう無量むりょう無邊むへん福德ふくとく果報かほうを生ずる。それは印度インドに起り、支那し な・朝鮮の誰一人として信敬しんきょうしない者はない。今、このとうとい法を貴國きこくつたへ、この大法たいほうが必ず東方に流傳るでんするといふ佛陀ぶっだ豫言よげん實現じつげんする次第である」との意が記してあつた。

 天皇は何分にも異敎いきょうである關係かんけい上、愼重しんちょうに考慮せられ御自身だけで問題を解決させられず、信仰の可否を群臣ぐんしんに問はれた。その際、大臣の蘇我稻目そがのいなめは「すでに諸國で信じてゐる以上、我が國のみ不可な理由はない」とそうし、大連おおむらじ物部尾輿もののべのおこし及び中臣鎌子なかとみのかまこは「我國には天地あめつちの神々がございます。それにもかかわらず、今異國いこくの神をはいせらるるならば、必ず國神くにがみの怒りにれるでせう」と申上げた。ここに可否兩樣りょうようの意見が出たが、天皇は御自身可否を決定せられず、崇佛すうぶつの意のある稻目いなめ佛像ぶつぞうたまわつた。そののち、この兩派りょうは事每ことごとに政治上・思想上の鬪爭とうそうつづけ、一蘇我氏そ が し物部もののべ一派からはげしい壓迫あっぱくを受けた。が、周圍しゅういの形勢及び廐戸皇子うまやどのおうじ崇佛說すうぶつせつさんせられるに及び、事情は一ぺんして、遂に物部氏もののべし守屋もりやの代に蘇我氏そ が しに亡ぼされ、佛敎ぶっきょうは偉大な勢力るに至つた。

〔註二〕舍利 敏達びたつ天皇十三年に、司馬し ば達等たちと佛舍利ぶっしゃり馬子うまこけんじた。馬子うまこは試みにこれを鐵槌てっついで打つても、くだくことは出來ず、水中にれれば、勝手に走つたりとまつたり浮いたり沈んだりする。目前にこの功驗こうけんを見て、馬子うまこたちま佛法ぶっぽう信者となり、石川の自宅に佛殿ぶつでんを造つた。「佛法ぶっぽうの初め、ここよりおこれり」と『敏達紀びたつき』には記してゐる。

〔註三〕多須那及び尼のこと 崇峻すしゅん天皇の三年三月に、善信尼ぜんしんに(司馬達等の娘)などが百濟くだらから還つて櫻井寺さくらいでらに住んだ。冬十月に山に入つて寺のを取つた。このとしに出家した尼は、大伴狹手彥連おおとものさてひこのむらじむすめ善德ぜんとく新羅しらぎのひめ善妙ぜんみょう百濟媛くだらのひめ妙光みょうこう及び漢人かんじん善聰ぜんそう善通ぜんつう妙德みょうとく法定照ほうじょうしょうなどである。司馬し ば達等たちとの子多須那た す まも同時に出家して德齊とくさい法師ほうしといつた。(崇峻紀)

〔註四〕善信尼 この年(敏達天皇十三年)に我國最初の尼僧にそうが三人出來た。一は司馬し ば達等たちとの娘島女しまめで、十一歳のとき出家して善信尼ぜんしんに(或は、ぜんしんのあま)といひ、他はその弟子で、漢人かんじん夜菩や ぼの娘豐女とよめ及び錦織壺にしごりのつぶの娘石女いしめで、各々おのおの禪藏尼ぜんぞうのあま惠善尼えぜんのあましょうした。

【大意謹述】ちんは今、佛敎ぶっきょうを盛大にして佛寺ぶつじを多く建立こんりゅうしたいと考へてゐる。最初佛骨ぶっこつを求めた際、なんじ祖父そ ふ司馬し ば達等たちとただちにそれを獻上けんじょうした。又、當時とうじ我國わがくにほとけつかへる僧尼そうにが少しも存在しなかつた頃、なんじの父の多須那た す な用明ようめい天皇おんめに出家して、ほとけの法を堅く守り、常に態度をつつしんで崇佛すうぶつの意をあらはし、更になんじの伯母の島女しまめは我が國最初の尼僧にそうとして、多くの尼を導いて佛敎ぶっきょう宣傳せんでんした。なんじ一家ほとけとはじつ因緣いんねんが深いといはなければならない。

【備考】我國わがくにに於ける佛敎ぶっきょう傳來でんらいに就いて、(一)聖德太子しょうとくたいし何故な ぜ佛敎ぶっきょうを保護されたか、(二)百濟くだら聖明王せいめいおう何故な ぜ日本に佛敎ぶっきょうつたへたか、(三)當初とうしょあれ程壓迫あっぱくされた佛敎ぶっきょう何故なにゆえひろく信仰されるに至つたか、の三問題は當然とうぜん考へられる。ここでは(二)及び(三)について簡單かんたんに記さう。

 すでに『軍事外交篇』で一おう說明せつめいしたやうに、當時とうじ朝鮮では、百濟くだら新羅しらぎとが久しい間、衝突して、我が繼體けいたい天皇の初期には大連おおむらじ大伴金村おおとものかなむら百濟くだら左袒さたんし、近江毛野おうみのけぬみことのりほうじて新羅しらぎを討つたことがある。欽明きんめい天皇六年には、百濟くだら聖明王せいめいおうは日本の任那みまな官府かんぷ大臣おおおみ任那みまな興復こうふく新羅しらぎ征討せいとうとをはかり、いでじょう佛像ぶつぞうを造つて福祉ふくしいのつた。したがつて佛像ぶつぞう鑄造ちゅうぞうは外交上の原因、すなわち日本の好意を得て、新羅しらぎこうする時の後援を求めたことが一因となつてゐるらしい。ただ欽明きんめい天皇十三年紀に見える百濟くだら國書こくしょに「大法だいほうは必ず東方へ流傳るでんすると佛陀ぶっだ豫言よげんした旨を實現じつげんする次第云々うんぬん」との意があるてんから、「我が法は東方に流傳れでんしよう」との佛說ぶっせつを信ずることからも出たともかいせられる。要するに主として外交上、じゅうとして信仰上の原因から、聖明王せいめいおう佛敎ぶっきょうを日本につたへたと見ればよいであらう。

 佛敎ぶっきょうが一時の壓迫あっぱくを越えて國敎こっきょうと思はれるほどの盛大さとなつた原因には、政治上、蘇我氏そ が しの勝利、聖德太子しょうとくたいし佛敎ぶっきょう加護か ごなどが當然とうぜん考へられるが、一般的には時代の新機運に合致したためでもあつた。在來ざいらい日本の原始神道しんどうは、支那し な文學ぶんがく洗禮せんれいを受け、智的ちてきに進歩した上流貴族や、朝廷に仕へる支那し な・朝鮮出身の學問がくもんある有司ゆうしに十分な滿足まんぞくあたない有樣ありさで、當時とうじ傳來でんらいした儒敎じゅきょうあまりに現生げんせい的であるのにして、支那し な・朝鮮を風靡ふうびした佛敎ぶっきょう未來みらい幸福こうふくき、前世からの因緣いんねんおしへ、崇拜すうはいの目標である佛敎ぶっきょう藝術げいじゅつ的表現の上に於いて、强い美しい印象を人々の上にあたへた。したがつて新奇しんきを好む人心じんしんを動かす效果こうかは大きかつた。結局佛敎ぶっきょうは時代の新機運にじょうじて起り、政治上の有力者の保護によつて宣敎せんきょうの基礎を確立したといへよう。

4-3 磐鹿六鴈の靈に告げ給へる宣命 景行天皇(第十二代)

大日本詔勅謹解4 神祇佛敎篇

磐鹿いわか六鴈むつかりみたまたまへる宣命せんみょう(第三段)(高橋氏文

此志太比天、吉膳職護守利太比天、家患事等志女太戸度奈毛思⻝太麻不天皇大御命良麻乎、虛御魂太戸止太麻不

【謹譯】こころざしりたびて、膳職かしわでのつかさうちそと護守ま もりたびて、みやうれへのこともなくらしめたまひたべとなも思⻝おぼしめすとりたまふ天皇すめら大御命おおみことらまを、そら御魂みたまきたべともうすとりたまふ。

【字句謹解】◯此の志 天皇六鴈命むつかりのみことの子孫を特に優遇される御志おこころざし ◯知りたびて 知りたまひての略、六鴈命むつかりのみことれいがそれを知つての意 ◯ 朝廷のこと、かみとなつた六鴈命むつかりのみことは、これ程の偉力いりょくを持つと信ぜられてゐた ◯虛つ御魂 虛空こくうにある六鴈命むつかりのみこと靈魂れいこんのこと。

【大意謹述】六鴈命むつかりのみことれいよ、天皇がこれ程なんじの子孫を優待される御志おこころざしをよく了解して、十分に調理職の內外うちそとを守護し、朝廷にも何等なんらの心配が起らないやう心すべきことをおおせられた。みぎ天皇大命たいめいを、ここに確かに天上てんじょうにある六鴈命むつかりのみこと靈魂れいこんも親しく聞かれるやう、改めて告げる。