6 多遲比野 履中天皇(第十七代)

多遲比野

多遲比怒邇、泥牟登斯理勢波、多都基母母、母知氐許麻志母能、泥牟登斯理勢婆。

【謹譯】多遲比野た じ ひ ぬに、むとりせば、防壁たつごもも、ちてましもの、むとりせば。

【字句謹解】◯多遲比野 河內國かわちのくに丹比郡たちひごおりにある〔註一〕參照さんしょう ◯寢むと知りせば ると知つたならば ◯防壁 屛風びょうぶのやうに御座ぎょざの脇に立て𢌞まわすもの、こもんで作る ◯來ましもの たであらうものを。

〔註一〕多遲比野 本御製ほんぎょせい天皇が酒にはれて御寢中ぎょしんちゅう御弟君おんおとうとぎみ墨江中王すみのえのなかつみこ謀叛むほんがあり、危く虎口ここうを逃れて多遲比野た じ ひ のみゆきせられた際にえいたもうたのである。『古事記下卷げかんにはこの事件を次の如く記してゐる。

  もと難波なにわの宮にしし時、大嘗おおにえして、豐明とよのあかりせす時に、大御酒おおみきうらげて、大御寢おおみねましき。ここにその御弟おんおとうとすみ中王なかつみこ天皇すめらみことを取りたてまつらむとして、大殿おおとのに火をつけたりき。ここやまとあやあたえおや阿知あ ちあたえ、盜みでて、御馬みうまたてまつりて、やまとにいでまさしめき。かれ多遲比野た じ ひ ぬに到りまして、めまして、ここは何處いずこぞとたまひき。かれ阿知あ ちあたえもうさく、すみなかみこ大殿おおとのに火をたまへり。かれまつりてやまとに逃げくなり、ともうしき。ここに天皇すめらみことうたはしけらく、云々

【大意謹述】ちんがこんな狀態じょうたいにありながら、この多遲比た じ ひの野原でつづけると前以て知つてゐたならば、周圍しゅういに立てまはして夜風を防ぐ物を必ず持つてたに相違ないのであつた。あゝ、我ながら不覺ふかくであつた。この多遲比た じ ひはらで寒い目にあひ、つづけるなどとは、全く考へないで、をゆるしてしまつたことよ。

【備考】事變じへんつて、迷惑せられた心持こころもちを率直に表現されてゐる。天皇は、平生へいぜい住吉仲皇子すみのえのなかつみこ(墨江中王)を信じてをられただけに、そのおん驚きは深かつたことであらう。快い醉臥すいがの平和をたちまち破られて、ひろい野で寒い風に吹かれながら、やみたいせられた當時とうじ御有樣おんありさが想像せられる。

5 雁 仁德天皇(第十六代)

多麻岐波流、宇知能阿曾、那許曾波、余能那賀比登、蘇良美都、夜麻登能久邇爾、加理古牟登、岐久夜。

【謹譯】たまきはる、うち朝臣あ そこそは、長人ながひとそらつ、やまとくにに、かりと、くや。

【字句謹解】◯たまきはる たまきわまる義で、いのち、世、又はうつつの義で「うち」にかける枕言葉とく人と、「たまき」は手纏たまきで、「はる」はくと同じと解し、「手纏たまきうで」とつづける例から「うち」にかけ、「うち」は現世の意であるとして、いのち、世にかける人と二せつあり一定しない。ここでは「うち」の枕言葉として使用してゐる ◯內の朝臣 武內宿禰たけのうちのすくね內大臣ないだいじんとしての地位にゐたからかく言つたといふ人と、「うち」は大和の宇智郡うちごおりの義で、武內宿禰たけのうちのすくねじゅうしてゐたからかうおおせられたとする人と、これも二ように解せられて定說がない ◯汝こそは 武內宿禰たけのうちのすくねふ ◯世の長人 長老の意、宿禰すくね生歿年せいぼつねん明瞭めいりょうではないが、「公卿く げ補任ほにん」に景行けいこう天皇九年に生れ、仁德にんとく天皇の七十八年にこうじ、六帝につかへて、三百十二歲の壽命じゅみょうを保つたとあるのでも、長生ながいきのほどが分かる ◯空見つ 虛空こくうから見るといふせつが多いが、定說ていせつにならない。「やまと」の枕言葉 ◯雁子產と聞くや かりが子を生んだといふが、そんな例を知つてるかとの意。これは多分祥瑞しょうずいを喜ぶ思想の反映であらうとふ說もある。

〔注意〕本御製ほんぎょせい天皇女島ひめじまに於いてかりが子をんだのを御覽ごらんあり、その前例を武內宿禰たけのうちのすくねに問ひたもうたので、『古事記下卷げかんにある。記紀き きでは多少御製ぎょせいことなるから、その部分をに引用する。

(一)『古事記』の記事

 又一時あるとき天皇すめらみこ豐樂とよのあかりたまはむとして、女島ひめじまにいでませる時に、の島にかりみたりき。かれ建內たけうち宿禰すくねみことして、御歌みうたもてかりめるさまはしたまへるその御歌みうた

  たまきはる、うち朝臣あ そこそは、世の長人ながひとそらつ、やまとくにに、かりと、くや。

 ここに建內たけうち宿禰すくね、歌もて語りもうさく、

  たかひかる、御子み こ、うべしこそ、たまへ、にこそ、たまへ、こそは、長人ながひとそらつ、やまとくにかりと、いまかず。

 かく申して、御琴みことたまはりて、うたひけらく、

  御子み こや、ついに知らむと、かりうむらし。

 これ祝歌ほぎうた片歌かたうたなり。

(二)『仁德紀』の記事

 五十年春三月やよい壬辰朔みずのえたつのついたち丙申ひのえさる河內かわちの人そうしてもうさく、茨田堤まむたのつつみおいかりこうめりと。卽日そくじつ使つかいつかわしてしめたまふ。いわく、すでじつなり。天皇すめらみこここに歌よみて以て武內宿禰たけのうちのすくねひてのたまわく、

  たまきはる、うちのあそ、こそは、遠人ながひとこそは、くに長人ながひと秋津島あきつしま大和やまとくにに、かりむとかずや。

 武內宿禰たけのうちのすくね答歌かえしよみていわく、

  やすみしし、大君おおきみは、うべなうべな、はすな、秋津島あきつしま大和やまとくにに、かりむと、かず。

【大意謹述】朝廷に奉仕する大臣おおおみ武內宿禰たけのうちのすくねよ。なんじこそは現在最も長壽ちょうじゅを保つてゐるので、の人々の知らない珍らしい事などを知つてゐるに相違ない。そこでちんなんじに問ひたいのだが、一たい、この日本國やまとのくにかりが子をんだ前例があるだらうか。そんな事を聞いたかどうか。

【備考】當時とうじかりが子を生むとつたやうな、珍しいことを見出すと、それについて、吉凶きっきょうぼくするといふ風習があつた。仁德にんとく天皇が、武內宿禰たけのうちのすくねに向ひ、下問かもんあらせられたのも、つまり、そのめで、その際、宿禰すくねは、返歌へんかもうし上げ、「わがきみ、よくこそ御下問ごかもんなさいました。おおせの如くわたくしれな長老でございます。しかいまかつかりが子を生んだことを聞きませぬ。して見ると、それは必ず目出度め で たい前兆と存じます」と答へた。賀茂か も眞淵まぶちは、この事を仁德にんとく天皇皇子おうじ時代のこととし、『書紀』の五十年とあるのは誤りだとしたが、成程なるほど、最後の片歌かたうたみこや」の意味が、皇子時代の事としないと、通ぜぬのである。すなわち「きみが天下に君臨なさる目出度い前兆として、かりが子を生みました」といふ意味が皇子時代のことだとされる上に於てこそ、始めて意味が通ずる。

4 葛野 應神天皇(第十五代)

葛野

知婆能、伽豆怒塢彌例磨、茂茂智儾蘆、夜珥波母彌喩、區珥能朋母彌喩。

【謹譯】千葉ち ばの、葛野かづぬれば、百千ももちたる、家庭やにわゆ。くにゆ。

【字句謹解】◯千葉の 葉の多い義で、「葛野かづぬ」の枕言葉、くずは葉が多いのでかくいふ ◯葛野 宣長のりながはこれを山城國やましろのくに葛野かどの乙訓おとくに紀伊き い三郡にわたる平野の總稱そうしょうとしてゐる ◯百千たる 民家が多く立ち滿ちてゐる有樣ありさ ◯家庭 民の住む場所 ◯國の秀 國內こくないのすぐれて人目を惹く良い地。

〔注意〕本御製ほんぎょせいは『日本書紀かん十にある。應神おうじん天皇近江國おうみのくに行幸ぎょうこうなされた時のものとはいする。『應神紀おうじんき』には

  六年春二月きさらぎ天皇すめらみこ近江國おうみのくにみゆきして、菟道野う ち ぬの上に至りて、うたひてのたまわく、

と見え、『古事記中卷ちゅうかんには、

  る時天皇すめらみこ近淡海お う みくにえいでます時、宇遲野う じ ぬの上に御立み たたして、葛野かづぬ見放み さけまして、うたはしけらく、

とある。

【大意謹述】この土地から葛野かづぬの平野を見おろすと、そこには日々にして幾千となく建つた家々が見え、國中くにじゅうですぐれて人目をひく場所なども見える。

【備考】この御製ぎょせいは、國中くにじゅうが次第にさかえてゆく有樣ありさ御覽ごらんになつて、國民こくみんのため何よりも、それを悅喜えっきせられた思召おぼしめしを表現せられてゐる。春の平野に於ける遠望えんぼうの快適さは、ふ迄もないが、左樣そ うした景觀けいかんを鑑賞せらるると共に、深く民衆の幸福こうふくいのられた御心持おこころもちやわらかくあらはれてゐる。

3 望郷 景行天皇(第十二代)

望郷

波辭枳豫辭、和藝幣能伽多由、區毛位多知區暮、夜摩苔波、區珥能摩保邏摩、多多儺豆久、阿烏伽枳夜摩許莽例屢、夜摩苔之于漏破試、異能知能、摩曾祁務比苔破、多多彌許莽、幣遇利能夜摩能、志邏伽之餓延塢、于受珥左勢許能固。

【謹譯】はしきよし、吾家わぎへかたゆ、くもも、やまとは、くにらば、たたなづく、靑垣山あおがきやまこもれる、やまとし、うるはし、いのちの、そけむひとは、たたみこも、平群へぐりやまの、白檮しらがしを、髻華う づせ、

【字句謹解】◯愛きよし 「はしき」はうるはしい義で、「よし」は助辭じょじ。故郷を賞美されることである ◯吾家の方ゆ 我が故郷の方からの義。「ゆ」は動作の起點きてんをあらはすもの ◯雲居起ち來も 雲がつてこちらへ向つてること ◯國の眞區らば くに眞中まんなかにある場所の意 ◯たたなづく 長いものの縮まり寄合つてたたまつてゐる形容で、靑垣山あおがきやまにかかる ◯籠れる 一面にあおい山にかこまれての中に入つて外部からは見えないこと ◯麗はし 美しい ◯命の全そけむ人 生命の健康な人 ◯たたみこも こもたたみこんだといふ義で、次の「平群へぐりやま」にかかる。たたんだ菰重こもへから「へ」を受け、平群へぐりやまとなつたもの ◯平群 大和國やまとのくに平群へぐりぐんにある山のこと ◯白檮が枝 白樫しらがしの枝で、平群へぐりやまから當時とうじかしが多く出たらしいといはれてゐる ◯髻華に挿せ 木草もくそうの枝をかしらすことで、後世の挿頭かざしと同じ。これをして行樂こうらくしたのである ◯此の子 前句の「いのちそけむ人」を受けたもの。

〔注意〕本御製ほんぎょせい景行けいこう天皇子湯縣こゆのあがた行幸ぎょうこうあり、はるかに帝都をおもうてえいぜられたと『日本書紀』にあるが、『古事記』には日本武尊やまとたけるのみこと御歌ぎょかとし、これを三句に區別くべつしてせてある。參考さんこうのため次に兩者りょうしゃを引用する。

(一)『景行紀けいこうき』の記事

 十七年春三月やよい戊戌つちのえいぬついたち己酉つちのととり子湯縣こゆのあがたみゆきして͡丹裳小野こものおぬに遊びたまふ。時にひむがしのかたをそなはして、左右もとこひとひてのたまわく、くにただづるかたけり。かれくになづけて日向ひゅうがのたまふ。野中のなか大石おおいしのぼりまして、京都みやこしのびたまひてうたひてのたまわく、云々

(二)『古事記中卷ちゅうかんの記事

 そこよりいでまして、能煩野の ぼ ぬいたりませる時に、くにしのばしてうたひたまはく、

  やまとは、くにまほろば、たたなづく、靑垣山あおがきやまこもれるやまとし、うるはし。

また

  いのちの、またけむ人は、たたみこも、平群へぐりの山の、くま白檮か しが葉を、髻華う づにさせ、その

 この御歌みうたは、思國歌くにしぬびうたなり。またうたひたまはく、

  はしけやし、吾家わぎへかたよ、くもも。

 こは片歌かたうたなり。の時御病やまいにわかになりぬ。ここに御歌みうたして、

  をとめの、とこに、が置きし、つるぎの太刀た ち、その太刀た ちはや。

 と歌ひへて、すなわかむあがりましぬ。かれ驛使はゆまづかいたてまつりき。

【大意謹述】したはしい、ちんの故郷である、帝都にあたつて、雲がち、こちらへ進んでてゐる。帝都やまとは、我がくにの中心地にある所の凹地おうちである。いくつかの物を重ね合つたやうなあおい山々に四方を取りかれて、その中にすつかりかくれてゐるやまとこそ、非常に美しくなつかしい。健全な身體からだを持つた人々よ。汝等なじらはすぐにその場にき、こもをたたんだ形に似たやまと平群へぐりやまから出る白樫しらがしの枝を頭髮とうはつしてたのしく遊べよ。

【備考】拜誦はいしょうすると、春によそわはれた大和のくにのなつかしい光景が、おのづからの前に浮ぶ。白樫しらがしの枝を頭髮とうはつにさしてたわむるる人々の長閑のどかな、たのしげな樣子ようすが思ひ出される。春の感じが、かうして全面に波打つてゐる。美しく、尊い御製ぎょせいである。

2 うま酒の歌 崇神天皇(第十代)

うま酒の歌

宇磨佐階、瀰和能等能能、阿佐妬珥毛、於辭寐羅箇禰、瀰和能等能渡鳥。

【謹譯】味酒うまざけ三輪み わ殿とのの、朝戸あさとにも、ひらかね、三輪み わ殿門とのどを。

【字句謹解】◯味酒 非常に美味な酒の義で、次句の「三輪み わ」が「神酒み わ」に通ずるので使用した。その由來ゆらい本御製ほんぎょせいとなるのである ◯三輪の殿の 大物主神おおものぬしのかみ靈廟れいびょうの意。大物主神おおものぬしのかみの子孫の大田おおた田根子た ね こ祖神そじんを祭り、酒を釀造じょうぞうして、天皇たてまつつたので、神殿しんでんで酒宴を開かれた。その時にえいぜられたのでこの句を挿入したのである ◯朝戸にも押し開かね 一夜中飮みあかしたのち、朝になつたら社殿しゃでんの戸を押し開いて散會さんかいせよとのおおせである ◯三輪の殿門を 繰返しによつて意味を强めたのである。

【大意謹述】大物主神おおものぬしのかみを祭つた三輪み わ社殿しゃでんで、美味な酒をあじわひながら、酒宴をすることは、ちん汝等なんじら同樣どうように愉快である。汝等の申す通り、今夜はかんつくしてえんつづけ、夜明よあけになつたら、三輪の社殿しゃでんを押し開いて、退出するがよい。

【備考】本御製ほんぎょせい崇神すじん天皇大物主神おおものぬしのかみ後裔こうえい大田おおた田根子た ね こを登用して、大物主神おおものぬしのかみを祭りたもうたので、そこの掌酒さかびととなつた活日いくひ神酒しんしゅ獻上けんじょうし、一同で酒宴しゅえんされた際の御製ぎょせい拜察はいさつする。天皇臣下しんかに向ひ、親愛の心持こころもちを以てたいせられた御樣子ごようす快活かいかつ明朗めいろう御精神ごせいしんいだかせられた事が拜察はいさつされる。『崇神紀すじんき』には次の如く見える。

  八年夏四月うづき庚子朔かのえねのついたちきのと、高橋むらの人活日いくひを以て大神おおみかみ掌酒さかびととなしたまふ。。冬十二月しわする丙申朔ひのえさるのついたちきのと天皇すめらみこ大田おおた田根子た ね こを以て大神おおみかみを祭らしめたまふ。の日に活日いくひみずか神酒み きささげて天皇すめらみこたてまつる。りてうたよみしていわく、

   みきは、みきならず、大倭やまとす、大物主おおものぬしの、みしさけ幾久いくひさ幾久いくひさ

  かく歌ひて、神宮かみのみやうたげしたまひき。すなわえんおわりて、諸大夫たゆう歌ひてのたまわく、

   味酒うまざけ三輪み わ殿とのの、朝戸あさとにも、でてかな、三輪み わ殿門とのどを。

  ここおい天皇すめらみこうたよみしてのたまわく、

   味酒うまざけ三輪み わ殿とのの、朝戸あさとにも、ひらかね、三輪み わ殿門とのどを。

  すなわ神宮かみのみやみかどを開きて幸行い でます。所謂いわゆる大田おおた田根子た ね こは今の三輪君みわのきみ始祖とおつおやなり。

 以上にしたがへば、諸大夫たゆう美酒み きしょうし、かんつくして、「夜の明けるまではここを去りたくない」と申し上げると、天皇もそれをさんたまひ、「朝になつたら退出せよ、それまでは酒宴をつづけよ」と仰せられたので、天皇また一夜中、その座にましましたことが判明する。