11 皇道を世界に宣布せよ

皇道を世界に宣布せよ

 かく歷代れきだい詔勅しょうちょくおいて、敬神けいしん愛民あいみん精神せいしんを表明せられ、つ皇室においてそれが實現じつげんに努められたことにたい國民こくみんは深く感激せざるを得ないのである。それが勤王心きんのうしんとなつて、さんとして發揚はつようし、祖國そこく愛となつて、心の花咲く現象を始終しじゅう見るのは他邦たほう立優たちまさ所以ゆえんであらねばならない。大義たいぎ名分めいぶんげんとして輝くもとにあつて、かく美しく、かくなごやかな君臣くんしんたいの姿をじょうの上で見るのは、ひとり、日本にのみそんする現象だといつても差支さしつかへなからう。

 藤田ふじた東湖とうこは、『弘道館こうどうかん記述義きじゅつぎ』において、左樣そ うした美しく、和やかな君臣一たいの姿(情の上に於て)を讃美し、「臣下しんか君上くんじょうに於けるや一たいなり。子孫の祖先そせんに於けるや一なり。臣子しんしすで德行とっこう道藝どうげいを修めて、以て君父くんぷつかふ。人君じんくん衆思しゅうし群力ぐんりょくを集め、以て祖宗そそうに報ず。すなわ君臣くんしん上下、の道を推弘すいこうする所以ゆえんのもの、いずれかこれよりだいならん。祖宗そそうこころざしここにおいてかちず。神皇しんこうれい感格かんかくせざるのあらんや。しかれどももともとむれば、ただ我が躬行きゅうこうつつしみ、我が君父くんぷつかふるのみ。もとよりぶんおかし、とうえ、高遠こうえんするにあらざるなり」とつた。すなわ東湖とうこは「日本の國體こくたいでは、天子てんし臣民しんみんとの關係かんけいが、一身同たい所謂いわゆる一つのからだである」とし、「天皇にあらせられては、天下萬民ばんみん思慮しりょと世論とをかえりみ、そのぜんとする所を採用せられて、天照大御神あまてらすおおみかみ及び神武じんむ天皇御恩澤ごおんたくむくたまひ、臣民しんみんにおいては、忠孝ちゅうこうの道によつて德性とくせいきたへ、その才藝さいげいを以て、皇室に忠實ちゅじつつかたてまつるならば、君臣くんしん・上下共に日本にっぽん精神せいしん皇道こうどうを世にひろめることが十分に出來で きる」といふ意味を述べたのである。

 上來じょうらい、述べたところにより、詔勅しょうちょくあらはれた日本精神せいしんあおぐと、道の實踐じっせん實行じっこうの上に最も重きを置かれてゐることが分明わ かる。すなわ道義どうぎ建國けんこくといふことが根本で、聖天子せいてんしにおかせられては、道義どうぎを以て、日本を善化ぜんかし、進んで世界を美化しようとせられてゐる思召おぼしめしそんすることが諒得りょうとくせられる。手短かにいへば、それは皇道こうどう發揚はつよう宣布せんぷである。この重大な使命のもとに、聖上せいじょう仁慈じんじ大孝たいこうとの御心みこころ發揚はつようせられ、臣民しんみん忠孝ちゅうこうを以て、君父くんぷに奉仕するといふのが、日本の特質である。

 ぎに日々あらたに自彊じきょうやまないところの日本の進運しんうんを助長するにあたり、文化向上の上で、中正ちゅうせい不偏ふへんの旨と輳合そうごう・調和のおもむきとを以てし、何處迄どこまでも、日本中心に、世界の美所・長所を採用するのが、一つの特質である。ひかへると、歐米おうべい模倣もほうでなしに、日本獨自どくじの文化を創造し、進んで世界を指導するといふのが本來ほんらい面目めんぼくだ。更にうちにあつては、上下すべてが互助ごじょ的であり、外に向つては、自主を旨とすると同時に、世界一家の博大な愛を表明して、國際こくさい上、「協和きょうわ」を旨とするのが、日本にっぽん精神せいしんの一特色だとへる。

 つ、いつ、いかなる場合にも、上下共に明朗めいろう性を失はないで、難局に善處ぜんしょし、あらゆる國難こくなんにめげず、飽迄あくまでも、道の實現じつげんへ歩みをつづけてやまぬ。それには、國民こくみん一同、皇室を中心としてあおぎ、天皇現人神あらひとがみとしてあがめ、絕對ぜったい平和を標目ひょうもくとしてゆかねばならぬが、一面、國防こくぼうのためには、尙武しょうぶ精神せいしんを失つてはならぬ。本來ほんらいは侵略のためのものでなく、平和を保持し、正義を護衞ごえいするところの支柱しちゅうである。いかに平和を强調きょうちょうしようとも、正義を尊重しようとも、その支柱(力)がなければ、意味をさない。「やいばちぬらずして天下をたいらげん」とおおせられた神武じんむ天皇御言葉みことばは、あきらかに本來ほんらい性を明示めいじしてをられる。が平和護持ご じのためのものである事を確言されてゐる。ゆえに正義に反するものがある時はむなく膺懲ようちょうせねばならぬ。この意味で、一旦、有事ゆうじの日にしょすべく、を重んじ、ることが必要である。明治天皇の軍人勅諭ちょくゆはいするものは、の意義を十分に知得ちとくするであらうが、尙武しょうぶすなわち平和護持ご じのための武備ぶ び尊重は、國民こくみん全般に共通的であらねばならない。明治天皇が「一旦、緩急かんきゅうあれば、義勇ぎゆうこうほうじ、以て天壤てんじょう無窮むきゅう皇運こううん扶翼ふよくすべし」とおおせられたのは、右の意義にほかならない。

 以上、歷代れきだい詔勅ごしょうちょくはいして得た感想の一端で、述べてつくさず、語つて到らぬところが多いのを、何よりも遺憾いかんとする。更に國史こくし上の事件、主題などと一々、對照たいしょうして、一そう深義しんぎ發揮はっきせねばならぬてんについて、紙數しすう關係かんけい上、わずかに一しょう部分にしかれ得なかつたのを殘念ざんねんに思ふ。けれども、詔勅しょうちょくに表現せられた大精神だいせいしんの內容は、大體だいたいにおいて、これを明白にし得たかとも考へる。要するに、詔勅ごしょうちょくを幾度も繰返して、拜誦はいしょうし、そこから偉大な精神せいしん感得かんとくすることが、第一義的だとはねばならぬ。それと共に、日本にっぽん精神せいしん運動なるものが、日本のための創造運動で、世界に寄與き よすべき日本文化の闡明せんめいと日本文化の獨自どくじ的建設を意味するものなる事を明確に意識して置きたい。例へば、神道しんどうの如きは、基督敎キリストきょう佛敎ぶっきょうあい併行へいこうしてあまりある大宗敎であるが、在來ざいらい、それが日本國民こくみん直觀ちょっかんの上に生き、各自が默識もくしき意會いかいしてをつたに過ぎない。すなわただ日本人同志の宗敎として存在し、ひろくこれを歐米おうべい宣傳せんでんするところ迄至つてゐない。

 メエソン氏の如きは、それを最大の遺憾いかんとしてゐる。氏は、「神道しんどうし組織的に說明せつめいせられ、體系たいけい的に打建うちたてられ、哲學てつがく科學かがくの方面から、歐米おうべい人を分明わ かるやう、かるるならば、世界の謎の如く、また軍國ぐんこく主義者の如く誤想ごそうされつつある日本は、はじめて、そのよき本質をあきらかにし、軍國ぐんこく主義のくにとされるやうなことは、絕對ぜったいになくなる」とつてゐる。

 ところが、現在、神道しんどうについては、メエソン氏の要求せるが如き意味において、かれてをらぬ。勿論もちろんここにいふ神道しんどうとは、古神道こしんどうのことで、『古事記』『日本書紀』『祝詞のりと』『萬葉集まんようしゅう』などを基本としての神道しんどうである。それは儒意じゅい佛意ぶついを加へない純粹じゅんすい性に生きる神道しんどうなのである。左樣そ うした意味に於ける神道しんどうは、淸朗せいろう快活かいかつ・素朴・純潔・至誠しせいの各要素を具備ぐ びし、最もく日本獨自どくじの宗敎たることを示してゐる。この古神道こしんどう哲學てつがく的に科學かがく的に組織立てて闡明せんめいすることが、やがて歐米おうべいに一大光明をあたへ、歐米おうべい人をして、はじめて、日本の偉大さを知得ちとくせしめる大きい原動力となる。のみならず、歷代の詔勅しょうちょくにおいて、敬神けいしんの意義にれ、日本の神々かみがみ崇敬すうけいせられることを例外なしに示されてゐる以上、この日本神道しんどうの世界的闡明せんめいと世界的進出とは、最も必要とせられる。この事は、すでに佐藤信淵のぶひろらが、かつて高調し、力說りきせつしたところで、大國おおくに隆正たかまさの如きも、やはり、信淵のぶひろの主張に共鳴したのである。

 ぎに、日本が、その獨自どくじの文化的各要素を創建し、整理して、これを世界に知らしめ、世界に寄與き よすることが最も必要である。過去において、日本は印度いんどから、また支那し なから精神せいしん文化的にえきを受けた。更に近代にり、歐米おうべいから物質的文明についてえきを受けた。自然科學かがくについて、歐米おうべいからせられたところが少くない。ゆえに日本は報恩ほうおん的な意味で、日本獨自どくじの文化各要素を明示めいじし、その創造運動によつて、世界に利益りえきあたへなければならぬ義務をにのうてゐる。したがつて、日本にっぽん精神せいしん運動は、世上せじょう一部のものが誤想ごそうしてゐる如きものではなく、非保守的、非御國おくに自慢的であり、非軍國ぐんこく的である。保守よりも進歩へ、御國おくに自慢よりも正しき省察しょうさつへ、軍國ぐんこく的よりも國際こくさい平和的へと歩むのが、日本精神せいしん的である。すなわちそれは有力な文化創造運動にほかならない。日本が、今後、一そう天壤てんじょう無窮むきゅう神勅しんちょくの意義を擴大かくだいしゆくがためには、以上の如き抱負・理想と正しい認識の上に起つべきである。(完)

10 歷代詔勅に現はれた敬神愛民の御精神

歷代詔勅に現はれた敬神愛民の御精神

 如上にょじょう詔勅しょうちょくあらはれた日本にっぽん精神せいしんについて、その主眼點しゅがんてん謹述きんじゅつした。右のほかに、歷代れきだい詔勅しょうちょく拜誦はいしょうして、最もにつくのは、(一)敬神けいしん(二)愛民あいみんについての大御言葉おおみことばで、ことに愛民の思召おぼしめしを表示せられ、その生活安定を心からいのられると同時に、政策の上にこれ實現じつげんされた場合を度々、はいする。ところが、プロレタリアのうちに、かうした事實じじつを知らないで、兎角とかく謬想びょうそういだきがちなものが往々あるのは、それらの詔勅しょうちょくについて存知ぞんちせぬからである。

 歷代の天皇が、臣民しんみん愛兒あいじの如く撫育ぶいくする大御心おおみこころを有せられたことは、度々、詔勅しょうちょくの上に明示せられてゐる。けだしそれは、皇室が日本國民こくみん總本家そうほんけであり、國民こくみんは、その分家ぶんけ支家し けたる密接の關係かんけいからきたつてゐるところが少くない。が、一つは、歷代の天皇仁慈じんじ御精神ごせいしんに厚く、暖かい人情味を抱有ほうゆうせらるるからである。今、左樣そ うした方面の大御言葉おおみことばを少しく拜載はいさいする。

黎元おおむたからめぐやしなふ。(崇神天皇

あめの下の公民おおみたからめぐたまひ、たまはんとなも、かむながらおもほしめさくとりたまふ。(文武天皇

⻝國おすくにあめの下をたまめぐたまふ事は辭立ことだつにあらず。人祖ひとのおや意能お の弱兒わくごやしなひたすことの如くおさたまめぐたまひ、わざとなもかむながら、おもほしめす。(元明天皇

ちん父母ふ ぼたり、何ぞ憐愍れんびんせざらんや。(聖武天皇

區宇く う母臨ぼりんし、黎民れいみん子育しいくす。(孝謙天皇

六合りくごう母臨ぼりんし、兆民ちょうみん子育しいくす。(淳仁天皇

ちんたみの父母となり、撫育ぶいくじゅつもとり、しずかこれおもひ、かえりてこころづ。(桓武天皇

ちん、民の父母たり、煩勞はんろうせしむることをほっせず。(平城天皇

たみあやううしてきみひとりやすく、うれひて父おもはざるものあらんや。(嵯峨天皇

ちん、民の父母となり、とくおおふことあたはず、はなはみずかいたむ。(後奈良天皇

將軍しょうぐん及び各國かっこく大小名だいしょうみょうみなちん赤子せきしなり。(孝明天皇

れ四かいうちいずれかちん赤子せきしにあらざる。(明治天皇

 かうして臣民しんみんたいする仁慈じんじ大御心おおみこころが深いめに、平等にこれを愛撫あいぶせられた。左樣そ うした間にあつて、生活苦になやむプロレタリアに向つては、常に救濟きゅうさいのことに御心みこころを注がれたのである。元來がんらい皇室におかせられては、貧富ひんぷの差別なく、すべての國民こくみん赤子せきしせられたのは申す迄もないが、富めるものは、生活上、みずから支持することが出來で きるので、いきお救濟きゅうさい御手み てを主として、プロレタリアに向けられた。時によると、おごれる富者ふしゃ・豪族らの專横せんおう制禦せいぎょすることに努められた場合も少くない。その方法として用ひられたのは、(一)金品をめぐ官稻かんとう貸與たいよせられること(二)課稅かぜいめんぜられること(三)課役かえきゆるうせられること(四)土地兼幷けんぺいを行ひ、もしくは暴利ぼうりむさぼるものをせいせられしことなどである。

方今このごろせいとぼし。しかるにいきおいあるもの、水陸たばたを分割して、以てわたくしの地とし、百せいあたへて、年々あたいもとむ。今より以後、地をるを得ず。みだりに主となりて、劣弱れつじゃくあわすることなかれ。(孝德天皇

頃者このごろ王公おうこう諸臣しょしん多く山澤さんたくを占め、耕種こうしゅを事とせず。きそひて貪婪たんらんいだき、むなしくさまたぐ。し百せいにして柴草さいそうる者あらば、りてを奪ひ、おおい辛苦しんくせしむ。しかのみならず、たまれる地、じつただ一二たもつのみ。これりて、みねえ谷にまたがり、みだりに境界きょうかいす。今より以後、さらしかることをざれ。(文武天皇

 以上の如き趣旨を詔勅しょうちょくの上に述べられた例は、にも少くない。中には、富豪ふごう・諸寺その他のものの暴利ぼうりおさむることをおごそかに禁ぜられたおおせもある。

◯先に禁斷きんだんありしにかついまあらためず。しか京內きょうないの諸寺、利潤りじゅんむさぼり求め、たくを以てしちに取り、𢌞まわしてもとす。ただ綱維こういの法をゆるのみにあらず、そもそまた官司かんし阿容あようす。何ぞたるの道ならんや。すなわ王憲おうけんたがふ。(桓武天皇

 次に飢饉ききん及び疫病えきびょうの流行などにあたつて、免稅めんぜいせられ、あるい醫療いりょうほどこし、あるい榖類こくるいなどをめぐまれたについての詔勅しょうちょくは、度々、拜誦はいしょうするところである。

大恩たいおんくだして、貧乏のものをあわれみ、以て飢寒きかんきゅうす。(天武天皇

およ負債者ふさいしゃにてとりとし天武天皇十四年)より以前の物はおさむるなかれ。(持統天皇

いま課役かえきを減じ、もっ產業さんぎょうを助けん。その左右兩京りょうきょう及び畿內きないこくならび今歲ことし調ちょうめんじ、自餘じ よの七どう諸國しょこくまた當年とうねんえきとどめよ。(元正天皇

れ天下百せいふ所の租稅そぜい未納言上ごんじょう、及び調庸ちょうよう未進みしんの者は、左右畿內きない弘仁こうにん十年以前、七どう諸國しょこくは九年以前、ならびに多少を論ぜず、蠲除けんじすべし。(嵯峨天皇

よろしく一々もんいたり、こくきゅうし、くすりあたへ、そんさいせしむべし。(淳和天皇

 それから地震・洪水その他の天災について賑恤しんじゅつを加へられたについての詔勅しょうちょくも少くない。それは明治・大正の時代と同じく、周到しゅうとう切實せつじつであつた。また場合によりほとけいのつて、天災をはらひのけようとされたこともある。後奈良ご な ら天皇左樣そ うした思召おぼしめしから、みずか般若はんにゃ心經しんきょううつされた。勅書ちょくしょではないが、その祈禱きとう御言葉みことばである。

 ◯頃者このごろ疫疾えきしつ流行し、民庶みんしょ憂患ゆうかんす。ちん不德ふとくかえりみ、寤寐ご びやすんずる無し。よっ弘仁こうにん遺塵いじんを追ひ、般若はんにゃ心經しんきょう妙典みょうてんうつたてまつる。あおねがわくば、天、丹誠たんせい懇篤こんとくなるに感じ、國家こっか蒼生そうせい多艱たかんし、すなわ法界うかい平等びょうどう利益りやくを致さん。

 その他、臣民しんみん窮苦きゅうくに同情して、これを救ふため特に節儉せっけんにつとめ、服御ふくぎょ常膳じょうぜんを減ぜられた際の詔勅しょうちょくも度々、拜誦はいしょうするところである。

あおいで前烈ぜんれつかんがへ、とくよこしまを除き、うちこれを心に求む。そもそ挹損ゆうそんすべし。ちん服御ふくぎょの物ならび常膳じょうぜんならびよろしく省減せいげんすべし。(仁明天皇

を責めて寅畏いんいいまところを知らず、ちん服御ふくぎょ常膳じょうぜんとうの物ならび減撤げんてつすべし。(淸和天皇

ちんぬる仁和にんな五年二月二十日、服御ふくぎょ常膳じょうぜんつとめて省約せいやしたがはしむ。所司しょしきゅうじゅんじ、四ぶんして一ぷくげんぜり。こころこころねず、おもいおもいを再びせず、懷露かいろせきげんことを願ひ、まさ禮節れいせつを成さんとせり。はからんや、水旱すいかん兵疫へいえきしきりにわざわいあり。諸國しょこくおのずか調ちょうようぎ、百かんしたがつて俸祿ほうろくなし。天をうらまず、人をとがめず、きらはず、かみめず。ちん無道むどうひとみずかこれを取るのみ。今かさねて服御ふくぎょの三ぶんの一をげんじ、あらたとし雜物ぞうぶつなかばはぶき、用度ようど中分ちゅうぶんして以てせっせよ。(宇多天皇

 かく皇室が愛民の精神せいしんを最も力强く、表明せられた場合は、の場合にも多くある。以上はその一端に過ぎない。更に一般に向つて、勤勞きんろうすすめ、農業にいそしむやうはげまれたことも、度々だつた。繼體けいたい天皇臣民しんみんのすべてに勞働ろうどうすすたまひ、上下一たいとなつて、共に働き、額に汗してつとむべきことを諭さとされたのは、最も顯著けんちょな一例だつた。

ちん聞く、當年とうねんにして耕さざるものあるときは、すなわち天下うえを受くることあり。じょ當年とうねんにしてまざるものあれば、天下こごえを受くることあり。ゆえに帝王みずから耕して農業をすすめ、后妃こうひみずかこがひて桑序そうじょを勉めたまふ。いわんや百寮もものつかさより萬族おおみたからいたるまで、農績のうせき廢棄はいきして、しかして殷富いんぷいたらんや。(繼體天皇

 救恤きゅうじゅつに、勸業かんぎょうに、歷代れきだい天皇まこと傾注けいちゅうせられたことは、以上の如くであるが、更に罪囚ざいしゅうに向つても、仁慈じんじを以て、これをぜんに導かうと努められた。

今者このごろ有司ゆうし奏言そうげんす、諸國しょこくの罪人すべて四十一人、ほうじゅんならびりゅう以上にあたるものなり。そうを聞くごとに、ちんはなはこれあわれむ。萬方ばんぽうつみあらば、われにんにあり。よろしくそうするところの罪人つみびとならびしたがふもの、咸皆ことごとく放免ほうめんし、安撿あんけんするなかれ。(元正天皇

 以上のうちで、「萬方ばんぽうつみあらば、われにんにあり」とおおせられた御言葉みことばに、如何い かにも深く民生みんせいを愛せられた思召おぼしめしのほどがあらはれてゐる。のみならず非常に臣民しんみんたいして、寬大かんだい御心みこころゆうせられ、治道ちどう精勵せいれいせられた叡慮えいりょのほどがうかがはれて、恐懼きょうくのほかがない。

 それから旅行が不便を極めた奈良時代に皇室におかせられて、萬民ばんみん苦艱くかんさっせられ、これに出來で きだけの便宜をあたへることを旨とせられたことも、往々、詔勅しょうちょくの上にはいするところである。

諸國しょこく役夫えきふ、及び運脚うんきゃくのもの、ふるさとかえるの日、粮⻝りょうしょく乏少と ぼしく、達するをるによしなしと。よろしく郡稻ぐんとういて別に便地べんちたくわへ、役夫えきふの到るにしたがつて、ほしいまま交易こうえきせしむべし。又行旅こうりょの人をして、必ずぜにもたらしてもとつて重擔おもにろうやすめ、またぜにを用ふるの便べんなることを知らしめよ。(元明天皇

◯聞くならく、諸國しょこくよう調ちょう脚夫きゃくふことおわりてふるさとかえるに、みちとおうしてかてえ、又行旅こうりょの病人、したしく恤養じゅつようすることなく、飢死が しまぬがれんと欲して、口をのりし、せいり、ならびに途中に辛苦しんくして、つい横斃おうへいを致すと。ちんれをおもひて、深く憫矜びんきょうす。よろしく京國けいこく官司かんしおおせ、粮⻝りょうしょく醫藥いやくはかきゅうし、つとめて檢校けんこうくわへ、本郷ふるさとに達せしむべし。(孝謙天皇

 要するに愛民あいみんといふことは、歷代れきだい天皇眼目がんもくとせられ、天職てんしょくとせられたところで、それが例外なく、徹底的に行はれ、窮民きゅうみん罪囚ざいしゅう行路こうろ病者びょうしゃその他一切に慈仁じにんが及んだのである。すなわ萬民ばんみんの苦痛とするところを苦痛とせられ、萬民ばんみんうれふるところをうれひとせられ、彼等の生活安定と幸福こうふく增進ぞうしんとを始終しじゅう、念頭に置かせられた。それらの思召おぼしめしは歷代の詔勅しょうちょくの上に治民ちみん治道ちどうかんする御精神ごせいしん、御方針を明快に表示され、元正げんしょう天皇は「ちんかいに君臨して、百せい撫育ぶいくし、家々貯積ちょせきし、人々安樂あんらくならんことを欲す」とのたまひ、桓武かんむ天皇は「たみくにもとなり。もとかたければくにやすし」とおおせられ、仁明にんみょう天皇は「國家こっか隆泰りゅうたいは民をますにあり」と申された。また文德もんとく天皇は「ちん寡德かとくを以て、かたじけな鴻基こうきべ、旰日かんじつ休むことなく、乙夜いつやぬることをわする」とのたまひ、光孝こうこう天皇は「ちん前王ぜんのう綜覈そうかくし、曩制のうせい捜羅そうらしてただ宵衣しょういしたがひ、旰⻝かんしょくつとめ、みずか慈儉じけんおこなひ、ひと富庶ふしょいたるを思ふ」とのたまわせられた。宇多う だ天皇に至つては、「百せい單寒たんかん見るに忍びず。すで富國ふこくぼうなし。ただてい貧民ひんみんがっせんのみ」と迄、おおせられてゐる。かうした御精神ごせいしんを以て、救恤きゅうじゅつ勸業かんぎょう專心せんしんせられたのである。ここ日本にっぽん精神せいしん醇要じゅんようとするところ、すなわち道の實踐じっせん實行じっこうの旨が切實せつじつに表示せられてゐる。

9 日本精神を高調せられた明治天皇

日本精神を高調せられた明治天皇

 崇神すじん天皇以後、特に感銘が深いのは、大化改新時代に於ける諸詔勅しょうちょくである。『思想社會しゃかい篇』におさめた「かねはこもうくるのしょう」「土地兼幷けんぺいを禁ずるのしょう」「直言ちょくげんを求むるのしょう」などは、いづれも、公平な愛民あいみん精神せいしん如實にょじつあらはれてゐる。その、制度の一大革新にかんする詔勅しょうちょくは、これを『政治經濟けいざい篇』におさめ、當時とうじ豪族の跋扈ばっこ專横せんおうおさへて一くん萬民ばんみんの政治を徹底せられるに努められた尊い叡慮えいりょのほどを謹述きんじゅつした。

 それ以後、歷代れきだい詔勅しょうちょくおいて、日本にっぽん精神せいしん宣揚せんようはいし、感激を深め得た場合が少くはないが、神武じんむ天皇時代の宏謨こうぼを再び想起そうきせしむる詔勅しょうちょくいずれに求めるかといへば、明治天皇の時代にはいすることが出來で きる。明治天皇は、江戸幕政ばくせいの腐敗・墮落だらくを一ぱいして、皇政こうせい復古ふっこ實現じつげんせられ、更に進んで、一切を革新せられ、興國こうこくの基礎をゑられた。その土臺どだいとなり、中樞ちゅうすうとなつたのは日本精神である。

 それについて、明治天皇が特に仰慕ぎょうぼせられたのは神武じんむ天皇で、當時とうじ道義どうぎ建國けんこく大精神だいせいしんかんしては、感銘をあらたにされたところがあつたと拜察はいさつする。久しい武家專制せんせい政治のために、日本にっぽん精神せいしんこと道義どうぎ建國けんこく旨趣ししゅは、おおむ沈衰ちんすいしてゐたが、明治天皇に至つて、その新興しんこうを見ることが出來で きたのは國民こくみん至幸しこうとするところである。すなわ神武じんむ天皇宏謨こうぼのっとられて、一くん萬民ばんみんの政治のもとに、一切の情弊じょうへいを去り、新局面を展開されたのが明治維新だつたと思ふ。左樣そ うした偉大・卓越の叡思えいしは、明治元年渙發かんぱつせられた五箇條かじょう御誓文ごせいもんの上に如實にょじつに浮び出てゐる。

 一 ひろ會議かいぎおこシ、萬機ばんき公論こうろんけっスベシ

 一 上下しょうかこころヲ一ニシテさかん經綸けいりんおこなフベシ

 一 官武かんぶ庶民しょみんいたまでおのおのそのこころざし人心じんしんヲシテマザラシメンことよう

 一 舊來きゅうらい陋習ろうしゅうやぶ天地てんち公道こうどうもとづクベシ

 一 智識ちしき世界せかいもとおおい皇基こうき振起しんきスベシ

 以上、一くん萬民ばんみんを基礎とする政治哲學てつがくの原理が明白に示されてゐる。更に明治元年、維新のみことのりはっせられて、

  往昔おうせき列祖れっそ萬機ばんきみずかラシ、不臣ふしんノモノアレバ、みずかしょうトシテこれせいたまヒ、朝廷ちょうていまつりごとすべ簡易かんいニシテ如此このごとく尊重そんちょうナラザルユヱ、君臣くんしんあいしたシミテ、上下しょうかあいあいシ、德澤とくたく天下てんかあまねク、國威こくい海外かいがいかがやキシナリ。

のたまひ、進んで積極的に興國こうこくのため、固く決意せられた叡慮えいりょそんするところを諭さとたまひて、

  ちんここニ百かん諸侯しょこうひろ相誓あいちかヒ、列祖れっそ御偉業ごいぎょう繼述けいじゅつシ、一しん艱難かんなん辛苦しんくとわズ、みずかラ四ほう經營けいえいシ、なんじ億兆おくちょう安撫あんぶシ、ついニハ萬里ばんり波濤はとう拓開たっかいシ、國威こくいヲ四ほう宣布せんぷシ、天下てんか富岳ふがくやすキニおかントほっス。

おおせられたことを五箇條かじょう御誓文ごせいもん對照たいしょうして、拜誦はいしょうすると、明治天皇雄大・崇高な御精神ごせいしん拜察はいさつすることが出來で きる。要するにすべては、天壤てんじょう無窮むきゅう神勅しんちょく土臺どだい道義どうぎ建國けんこく精神せいしん依據えきょし、それにのっとつて、時のよろしきに合致しようと遊ばされたのである。明治天皇が「天地の公道」とのたまはれたのはつまり、積慶せっけい重暉ちょうき養正ようせいの三大綱だいこうを基本とするといふ意味であらうと思ふ。

 けだし江戸幕政ばくせいは、武斷ぶだん專制せんせいで、公論を輕視けいしし、文武ぶんぶいづれも背離はいりしたのみならず、舊來きゅうらい陋習ろうしゅう拘泥こうでいしために人心をましめたことが多く、結局、國威こくいを外に失墜しっついせんとするに至つた。それは、日本にっぽん精神せいしん自覺じかくいたからだ。それゆえ明治天皇は、日本精神を基礎とし生命とし中樞ちゅうすうとする皇道こうどうを以て、すべてを率ゐようとせられ、公論を重んじ、經濟けいざいを大切にし、採長さいちょう補短ほたんの意味から、海外文化を攝取せっしゅして、時勢の進運に適應てきおうしようとなされた。かくの如くにして、「萬里ばんり波濤はとう拓開たっかいし、國威こくいを四方に宣布せんぷ」することが出來で きる。

 それに明治天皇は、特に敬神けいしんに重きを置かれ、明治のはじめには、神道しんどう興隆こうりゅうに最も力をつくされた。それについての詔勅しょうちょくは、『神祇しんぎ佛敎ぶっきょう篇』におさめてあるが、明治三年にはっせられた「惟神かむながら大道だいどう宣揚せんようするの勅語ちょくご」は、祭政さいせいの旨、治敎ちきょう同歸どうきの意義をあきらかにせられ、崇神すじん天皇神道しんどう興復こうふくにつとめられた盛事せいじ聯想れんそうせざるを得ない。その勅書ちょくしょのうちにおいて、の如くおおせられた。

  祭政さいせい億兆おくちょう同心どうしん治敎ちきょうかみあきラカニシテ、風俗ふうぞくしもうるハシ。しかシテ中世ちゅうせい以降いこうとき汙隆おりゅうアリ、みち顯晦けんかいアリ、治敎ちきょうあまネカラザルヤひさシ。いま天運てんうん循環じゅんかんシ、百維新いしんス。よろシク治敎ちきょうあきラカニシテ、もっ維新いしん大道たいどう宣揚せんようスベキナリ。

 思ふに、政治は敎化きょうかである。かみつかへる心、かみを祭る心を以て政治にあたるところに祭政さいせいの意義が實現じつげんせられ、敎化きょうか旨趣ししゅ具體ぐたい化される。かむながらの道は、大自然隨順ずいじゅんした公道こうどうであり、生命主義による日新にっしん創造の大經たいけいである。明治天皇が、かむながらの道を宣揚せんようすべきことを命ぜられたのは、けだし以上の精神せいしんもとづくのである。

 かくおおいだされた大御言葉おおみことばはいするものは當然とうぜん中正ちゅうせい公明こうめい日本にっぽん精神せいしんによつて、一切を統制し、解決しなければならなかつたにかかわらず、明治十五年前後からは、「智識ちしきを世界に求めよ」とおおせられた一てんに心を傾けすぎ、歐米おうべい崇拜すうはいおちいつたものが最も多かつた。それらの日、一歐米おうべい文明を急激に輸入ゆにゅうしなければならぬ事情もあつたが、それは必ずしも、極端に走る必要のあらう筈がなかつたのである。しか有識者の大半さへが、歐米おうべい崇拜すうはいおちいり、日本精神を沒却ぼっきゃくしたので、明治天皇は深くこれうれたもうた。すなわち日本精神を根本生命とし、國民こくみん絕對ぜったい的な標目ひょうもく中樞ちゅうすうとすべき道を敎示きょうじされようといふ御決心をなされた。かうした思召おぼしめしのもとに、渙發かんぱつせられたのが敎育きょういく勅語ちょくごである。

 それは、中外ちゅうがいを通じ、上下を通じての精神せいしん生活に於ける最高・最大の指導原理である。敎育勅語については、『道德どうとく敎育きょういく篇』において詳しく感想を謹述きんじゅつして置いたが、ここの方面から一げんもうし述べたいと思ふ。古來こらい日本にっぽん精神せいしんを基本とした詔勅しょうちょくは、相當そうとう多いが、その各要素を輳合そうごう的に結晶した詔勅しょうちょくは、いまかつてない。國體こくたい根幹こんかんとし國民こくみん性を分枝ぶんしとして、すべてが遵守じゅんしゅすべき心的生活上の指導原理を明白にされたのは、敎育勅語を以て始めとする。それは個人としても、社會しゃかい人としても、國際こくさい人としても、當然とうぜん行ふべき正徑せいけいを示されてゐる。

 のみならず、それは、日本國民こくみんの指導原理たるばかりでなく、道德どうとく倫理りんりの最高標準として、歐米おうべい人もまたこれをあおがねばならぬ。何となれば、唯物ゆいぶつと理論偏重へんちょうとに中毒して、精神せいしん的破產にひんせる歐米おうべいにおいては、その指導原理を歐米おうべい以外に求めねばならぬのだ。したがつてそれを東洋に求むるとするならば、いきお情意じょういを主とした日本の道德・倫理におしへを求むるのが最も適切だと思ふ。その最高指標たる敎育きょういく勅語ちょくごは、行詰ゆきづまつた歐米おうべい人の精神せいしん生活に向つて、必ず新生命をあたへるにちがひない。

 敎育きょういく 勅語ちょくごのほかに戊申ぼしん詔書しょうしょがあり、大正天皇精神せいしん作興さっこうについての詔勅しょうちょくがある。それらは、精神せいしん生活の光明こうみょうであるが、いずれかといふと敎育勅語に含まれてゐる意味の一面を更に新しい表現を以てかれたものと拜察はいさつする。その根本は、すべて敎育勅語にある。したがつて上下すべてを通じて、敎育勅語心讀しんどくし、始終しじゅう、それを光明としてあおぎ、進むことが、何より肝要であると思ふ。

8 政治とは敎化なり

政治とは敎化なり

 神武じんむ天皇以後、日本にっぽん精神せいしん發揮はっきに最も力をつくされたのは、崇神すじん天皇である。アメリカの哲學てつがく者として、日本研究に熱心なメエソン氏は、崇神すじん天皇讃仰さんごう者で、その著『かむながらの道』第六章において、「崇神すじん天皇神道しんどう復興ふっこう」と題する文章中、天皇敬神けいしんについて謹記きんきし、「天皇は日本國民こくみん暗黑あんこく時代から導き出し、君主と天照大御神あまてらすおおみかみ神鏡しんきょうとの同殿どうでん居住をはいし、天の統治者と地上の君主との間に何らの區別くべつを設けぬといふ主義を破られた…上代じょうだい記錄きろくによれば、崇神すじん天皇は六十七年間、統治にあたられたが、この時代は、神道しんどうに取つては、日本歷史れきし中、最も收穫しゅうかく多き時期だつた。崇神すじん天皇は、神道しんどうに於ける最も偉大な天才であられた。天皇は大きい獨創どくそう精神せいしん强烈きょうれつなる意志とを有し、つ新しき進歩の道を開かれた」と述べた。

 更にメエソン氏は、崇神すじん天皇功業こうぎょうに及び、「天皇國民こくみん福祉ふくしめに、物質的狀態じょうたいを改善しようとして、人間的努力の模範を示し、人民に福利ふくりあたへようと思召おぼしめされた。敎育きょういくの事、戸口ここう調査の事、徵稅ちょうぜい組織の事、運輸うんゆ機關きかん發達はったつ、造船、農業の改善などにかんする國史こくし中、最初の記事は、すべて崇神すじん天皇の時代にぞくする」と述べてゐる。また『日本書紀』は崇神すじん天皇のことについて、「識性しきせい聰敏そうびんわかくして雄略ゆうりゃくこのみたまふ。すでそうにして、寬博かんはく謹愼きんしん神祇しんぎ崇重すうちょうたまふ。つね天業てんぎょう經綸お さめむとおぼす心あり」と記してゐるのは、最もようを得てゐる。天皇詔勅ごしょうちょくのうちで、こと日本にっぽん精神せいしん精要せいようを示されたのは、かかぐるところのものであつた。

 皇祖みおやもろもろ天皇すめらたち宸極あまつひつぎ光臨しろしめすことは、あにしんためならむや。けだ人神じんしん司牧しぼくして、天下を經綸お さめたまふ所以ゆえんなり。よよ玄功げんこうひろめ、とき至德しとくく。いまちん大運あまつひつぎ奉承ほうしょうして、黎元おおむたからめぐみやしなふ。いかにしてまさ皇祖こうそあと聿遵のべしたがひ、ながきわまりなきあまつひつぎたもたむ。群卿ぐんけいりょうなんじ忠貞ちゅうていつくし、共に天下あめのしたやすらかにせむことまたからずや。(『日本書紀』)

 天皇人神じんしん司牧しぼくするとおおせられたのは、神武じんむ天皇の時代に高調せられた祭政さいせい精神せいしんを一そう發揚はつようせらるるめだつた。また天下を經綸お さめるとおおせられたのは、日本を統治せらるると同時に、風化ふうかを海外にも及ぼさうとする御心みこころを示されたのである。天皇は特に敎化きょうか御心みこころを注がれ、「民を導くのもと敎化きょうかにあり」とのたもうた。それは短い御言葉おことばではあるが、意義深重しんちょうである。法令や、威力も必要であるが、それは外部的のもので、內部的に人心に浸潤しんじゅんするのは敎化きょうかである。敎化きょうかの基本は敬神けいしんであり、敬神けいしん精神せいしんが徹底すれば、敎化きょうかじつをあげることが出來で きる。ひかへると、神道しんどう土臺どだいとして、敎化きょうかき、とくを以て、民を導くならば、世はことごと靜平せいへいする。この意味を十分に重んじ、その實現じつげんに努められたのが、崇神すじん天皇であらせられる。曾澤あいざわ正志せいしは、『新論』長計ちょうけい篇で、敎化きょうかの重要性を力說りきせつし、崇神すじん天皇敬神けいしん大御心おおみこころについて、の如く感想を謹述きんじゅつした。

  崇神すじん天皇卽位そくいの初め、人、あるい背叛はいはんするものあり。ときまさ上古じょうこふうぎ、天祖てんそ殿內でんないに祭る。天皇敬畏けいいみずかやすんぜず。すなわち移して、神器しんき笠縫かさぬい奉安ほうあんし、顯然けんぜん、外に祭り、天下をして瞻仰せんぎょうするところあらしむ。敬事けいじ尊奉そんぽうする所以ゆえんの意、天下とこれを共にす。しかして天下みな天祖てんそたっとび、以て朝廷をけいするを知る。

  殿內でんないに祭るは、以て誠敬せいけいうちつくす。しかいまだ以て、尊敬するところのを天下にあきらかにすべからず。天皇すなわこれを外に祭り、公然、天下と共にこれ敬事けいじせらる。誠敬せいけいの意、天下にあらわれ、天下はずしてさとる。れ一身を以て誠敬せいけいつくす、ほ以て神明しんめいを感ずべし。いわんや天下の誠敬せいけいあつめ、以て一しんほうずるをや(『新論』長計篇)

 正志せいしは、ほ進んで、崇神すじん天皇御功業ごこうぎょうに言及し、「大物主おおものぬし倭國魂やまとのくにたまを祭りたまひ、土人どじん敬尊けいそんするところによつて、まつりついづ。しかして畿甸きてん民心みんしん繫屬けいぞくするところあり。以て同じく朝廷をほうず。大物主神おおものぬしのかみは、始めて國土こくどたいらげてこうあり。ゆえの孫をげ、まつりつかさどる。しかして朝廷の民心を以て心とすを知り、朝廷にのぞみしょくす、しかしてこれを祭るの義はすなわ周人しゅうじん所謂いわゆる大社たいしゃなるものとあい似たるところあり…の義をげて、これを四方に達し、天社てんしゃ國社こくしゃを定む。天下の神祠しんしべざるなし。しかして天下の民心、繫屬けいぞくするところあり。以て同じく朝廷をほうず」と謹記きんきした。けだ正志せいしは、神道しんどうを高調し宣揚せんようすることを以て、民心を正導せいどうする上に最も效果こうか的であることを信じ、「祭政さいせいは一致、治敎ちきょう同歸どうきにして、たみのぞみしょくするところあり。天下の神祇しんぎみな天皇誠意せいいの及ぶところなり。の意あれば、必ずれいあり。たみれによつてまた上意じょういむかふところを知り、感欣かんきん奉戴ほうたい忠孝ちゅうこうの心、かかるところあり」と述べてゐる趣旨から、こと崇神すじん天皇神道しんどう振興しんこうつくされたことに感激したのである。

 思ふに、政治とは敎化きょうかにほかならない。西洋流の政治は、これと敎化きょうかとを別に切り離してしまつて、政治とは、一種の技術であり事務であるとしてゐる。かうした精神せいしんによつては、すべてが機械化してしまつて、理想的な善政ぜんせい實現じつげんを望むことが出來で きない。何となれば、政治に生命力がなくなり、低調となつてしまふからだ。現に西洋では、政治運動をスポオツ化してゐる。スポオツは一個の遊戯で、政治とは餘程よほどおもむきことにする。左樣そ うした考へのもとに政治を行ふことは、これを遊戯化することをまぬがれない。ところが、政治とは敎化きょうかであるといふことになると、政治の上に崇高すうこう嚴肅げんしゅくな意味が加つてくる。祭政さいせいといひ、治敎ちきょう同歸どうきといふのは、この意味にほかならぬ。すなわかみを祭るおごそかな心を以て政治を行ひ、かみを祭るつつましい精神せいしんを以て、臣民しんみんを指導すれば、政治は正大せいだいなものとなつて、おのづから、德化とっかが四方に及ぶのである。崇神すじん天皇御敬神ごけいしんは、この意味において、「政治とは敎化きょうかだ」といふことを如實にょじつに示されたものと解釋かいしゃくしてよいと思はれる。

7 建國の詔勅に現はれた大精神

建國の詔勅に現はれた大精神

 ぎに日本にっぽん精神せいしんの面目を最も明快に、最も莊嚴そうごんに、發揮はっきせられたのは、神武じんむ天皇建國けんこく大詔おおみことのりである。げんにいふと、建宮けんぐうみことのりである。それは、大和國やまとのくに橿原かしはらに宮を建てたもうたおり勅語ちょくごで、德富とくとみ蘇峰そほう氏は、本詔ほんしょうはいして、「皇威こういを四かいとどろかし、皇化こうか宇內うだいに及ぼすものにして、皇道こうどうを世界に宣揚せんようする日本にっぽん精神せいしん淵源えんげんは、まさしくこれにあるとはねばならぬ」とつてをられる。ここに一げんしたいのは、すでに『思想社會しゃかい篇』でもれてゐる問題だが、神武じんむ天皇御東征ごとうせいといふ事だ。史家萩野はぎの由之よしゆき氏は、東征とうせいについて、「あんずるに、太祖たいそ神武じんむ天皇筑紫つくしより中州ちゅうしゅうらせたまひしこと、舊史きゅうし多く東征とうせいの字を用ゐたるによりて、のち昧者まいしゃあるい此擧このきょを以て、天孫てんそん人種が長髓彥ながすねひこの大和人種を亡ぼして、中國ちゅうごく占略せんりゃくせしものの如く考ふるものあり。誣妄ふもうはなはだしきものなり。これ天祖てんそ皇都こうとあきらかにせずして、ひたすら天孫てんそん降臨こうりんは、海外よりせしものなりとの妄想に起因するところにして、おおい國體こくたいけがし、國史こくしそこなふものなり」と述べてゐる。萩野氏の見解と同じ立場にゐて、東征とうせいの意義を正解したのは、齋藤さいとう竹堂ちくどう靑山あおやま佩弦はいげん(延光)の二であつた。にこれを引用する。

  神武じんむ東征とうせい恢復かいふくなり。窮武きゅうぶ遠略えんりゃくの兵にあらず。何ぞや。天下の地、東をくびとなさば、西はすなわちそのなり。くびを以てを制するは常にやすく、を以てくびこうするは常にかたし。日向ひゅうが極西きょくせいにあり。の地最尾さいびとなす。ていこれよって起り、ほこふるつて東に向ふ。これ至難のいきおいなり。しかして掃蕩そうとう剗平さんへいこうす、はなはすみやかなり。ゆえなくしてしからんや。けだ天祖てんそ大和やまとすることひさし。皇孫こうそん西征せいせいいて日向ひゅうがみやこし、多く年所ねんしょたり。王綱おうこう解弛かいし邑君ゆうくん村長そんちょうたがいあい凌轢りょうれきし、饒速日にぎはやひの如きは、故都こ と據有きょゆうし、あえ皇命こうめいほうぜず、ゆえてい諸兄しょけいと一たんふるつてかえりみず、以ての地をふくせんとほっするなり(中略)われ當時とうじいきおいして以て天祖てんその大和にみやこし、しかしててい(神武天皇)の東征とうせいすなわこれ恢復かいふくせしことを知れるなり。(齋藤竹堂)

  上古じょうこの世、天祖てんそけだかつ中洲ちゅうしゅうおさたまへり。しかれどもすでの事を神異しんいにす。ゆえに後世あえて論述するものなし。その後、天孫てんそんちん西海さいかいうつす。天祖てんそまさこれさずくるに舊土きゅうどを以てせんとし、群神ぐんしんをしてこれ蕩平とうへいせしむ。天孫てんそんよろしくすみやかにこれおもむくべくしておもむかず。あいいで西海さいかいほうずるもの四せいけだし待つ所あるなり。何となれば、天祖てんそ舊土きゅうどおさめ、天祖てんそ鴻業こうぎょうおおいにし、群豪ぐんごう統馭とうぎょし四ほう鎭定ちんていするは、至難しなんにあらずとふべからず。命世めいせいえいにあらずば、いずくんぞにんへんや。神武じんむに至るに及びて、器宇き う恢廓かいかくにして諸兄しょけい超絕ちょうぜつす。ゆえ葺不合尊ふきあえずのみことの三けいこれを立つ。三けいまたの意を知り、心をかなへて輔翼ほよくす。皇族こうぞく輯睦しゅうぼくして將士しょうし薺整せいせいす。ここおいてか東征とうせいきょあり。天兵てんぺいの指す所、降附こうふせざることなし。(中略)嗚呼あ あていを以て中洲ちゅうしゅうを定めて、たっとぶのもとい立つ。しかしてこう天祖てんそするは、かみたっとぶのまこといたれるなり。かみたっとび、たっとび、つい萬世ばんせい大本たいほんす。これ寶祚ほうそ無窮むきゅうつたふる所以ゆえんなる(靑山佩弦)

 以上によつて、東征とうせいの意義が分明ぶんめいする。このとうと恢復かいふくぎょうのち神武じんむ天皇は、橿原かしはらに宮を建てられた。山鹿やまが素行そこうは、この事について、「つつしみてあんずるに、これ中州ちゅうしゅう營都えいとの初めなり。(中略)けだてい、天下の蒼生そうせい平章へいしょうするを以て大任たいにんたまひ、天帝てんてい授命じゅめいの重きを守り、天孫てんそん悠久ゆうきゅうぎょうを開く事を切にはかたまひ、つい東征とうせいして、以て中州ちゅうしゅうを制し、始めて都宮みやこの地をし、後世ののりを建て、以てくらい萬々世ばんばんせいながくす」と所感を謹述きんじゅつした。すなわ建國けんこく大詔たいしょうの如くであつた。

  三月やよい辛酉かのととりついたち丁卯ひのとうみことのりを下してのたまわく、ひんがしちしよりここ六年むとせになりぬ。皇天あまつかみいきおいこうむりて凶徒あ だどもころされぬ。邊土ほとりのくにいましずまらず。餘妖のこりのわざわいこわしといえども、中州うちつくにの地、風塵ふうじんなし。まことよろしく皇都みやこひらひろめ、大壯みあらかはかりつくるべし。しかして今、ときわかくくらきひ、おおみたからこころ朴素すなおなり。み、穴に住む。習俗しわざつねとなれり。大人ひじりのりを立つる、ことわり、必ず時にしたがふ。いやしくもおおみたからあらば、何ぞひじりわざたがはむ。まさに山林をひらはらひ、宮室おおみやおさつくりて、つつしみて寶位たかみくらいのぞみ、以て元元おおみたからしずむべく、かみすなわ乾靈國あまつかみのくにさずけたまふのうつくしびに答へ、しもすなわ皇孫すめみまただしきやしなたまふ心をひろめむ。しかしてのち六合くにのうちを兼ねて以て都を開き、八紘あめのしたおおひていえむことからざらむ畝傍山うねびやま東南たつみのすみ橿原かしはらところれば、けだ墺區もなかならぬ。みやこつくるべしと。つきすなわ有司つかさみことおおせて、帝宅みやこつくはじむ。

 本勅ほんちょく拜誦はいしょうして、誰もが氣付き づくであらう三つの要點ようてんがある。それは(第一)大人ひじりのりを立つる、ことわり必ず時にしたがふとおおせられたこと(第二)かみすなわ乾靈國あまつかみのくにさずけたまふのうつくしびに答へ、しもすなわ皇孫すめみまただしきやしなたまふ心をひろめむと宣說せんぜつせられたこと(第三)六合くにのうちを兼ねて以て都を開き、八紘あめのしたおおひていえむとのたまうたことなどである。第一は日新にっしん主義の表明で、時勢の進運につれ、諸制度も適宜てきぎ變更へんこう改革してゆくことの必要を認めてよいとせられたのである。すなわち根本の精神せいしん不變ふへんであるが、方法は時のよろしきにしたがふべきだといふ、進歩的な御心みこころを明白にされてゐる。第二は、御祖先ごそせん神々かみがみが、國土こくどの上にのこされた恩德おんとくを深く心にめいじて、天業てんぎょう恢弘かいこうに努めようとする御心みこころ皇子孫こうしそんが正義を護持ご じしてゆくための方法を考へられた御心みこころの表明である。過去を追うてははげみ、未來みらいを思うては、正しい用意を怠らぬ叡慮えいりょの程がうかがはれる。第三は、一こくを以て家とし、民を赤子せきしの如く愛撫あいぶして、皇道こうどうを內外にかうと思召おぼしめさるる旨のおおせである。それは、やがて道の上で、世界一家の人類愛に迄進展すべきことを明示めいじする。如上にょじょう養正ようせいは、積慶せっけい重暉ちょうきと共に、建國けんこくの三大綱だいこうとせられてゐることは、すでに述べた。

 ほ、(第三)について詳言しょうげんすれば、右のうち、八紘はっこうといふことは、一こく全體ぜんたいを家となすといふ思想から、更に世界全體ぜんたいを一つの家と見なすといふ人類愛の思想に迄展開せらるべきことが豫想よそうせられる。世上せじょう日本にっぽん精神せいしん排他はいた的なもの、偏狹へんきょうなものと誤解し、それが人類愛と併行へいこうし得ないと考へるものが往々おうおうある。が、それは全く見當けんとうちがひだ。祖國愛そこくあいと人類愛とは決して扜格かんかくしない。充實じゅうじつした祖國愛があつてこそ、はじめて充實じゅうじつした人類愛がある。祖國愛なくして、何の人類愛があらうか。このてんについて、局小きょくしょうへんした考へを持つのは大きい誤りである。八紘はっこう御言葉おことばは、祖國愛の肯定を基本としての人類愛への展開を意味してゐる。本來ほんらい、日本精神はすでに述べたやうに一方に偏ることをしない。それゆえに、祖國愛にしゅうして、人類愛を忘れるやうな片手落ちのあらう筈はない。それであればこそ、神武じんむ天皇は、八紘はっこうおおせられたのである。

 世上せじょう、西洋流の自由主義などにかぶれたものは、日本にっぽん精神せいしんふと、排他はいた的であり、野郞やろう自大じだい主義の權化ごんげであるかの如く曲解きょっかいするものがあるけれども、それは、日本精神の皮相ひそう撥撫はつむする以上に出ないからだ。聖德太子しょうとくたいしは「」といふことを重んぜられたが、とはすなわち平和のことである。絕對ぜったい平和!それが日本精神の目ざす標的であらねばならぬ。神武じんむ天皇が「れ必ず鋒刄つわものいきおいらずして、ながら天下あめのしたたいらげむ」とおおせられたのも、絕對ぜったい平和の大精神だいせいしんを表明せられたのである。勿論もちろん、いかに平和に眷々けんけんせられやうとも、正義の敵がむかつてくる場合は、止むなく、これをちゅうせられたのはいふ迄もない。が、「」の一字によつて進むことを原則とされたことは、神武じんむ天皇おおせや御行動ごこうどうによつても明白だ。すで絕對ぜったい平和が、日本精神の一標目ひょうもくである以上、世界を一家と見、全人類を同胞と見て、仁慈じんじを以てこれに向ふべきは當然とうぜん歸結きけつである。明治天皇はこのてんについて、その御製ぎょせいで四かい同胞の意味を高調せられ、道の上では、國境こっきょうを越えてひろがる人類愛の旨を宣示せんじなされた。したがつて、かの口先きばかりに博愛を唱へて、そのじつ、徹底的に侵略主義を實行じっこうする西洋のかたは、日本精神と一致せぬところがあるとはねばならぬ。