49 刺客ヲ捜索セシムルノ勅 明治天皇(第百二十二代)

刺客せっかく捜索そうさくセシムルノみことのり(明治四年二月 太政官日誌)

【謹譯】參議さんぎ廣澤ひろざわ眞臣まさおみへんあうちんすで大臣だいじん保庇ほ ひスルコトあたハス。またそのぞく逃逸とういつス。そもそも維新いしんヨリ以來いらい大臣だいじんがいかかものにんおよヘリ。これちん不逮ふたいニシテ朝憲ちょうけんタス、綱紀こうきおごそかナラサルノいたところちんはなはこれうらム。それ天下てんかれいシ、おごそか捜索そうさくセシメ、ぞく必獲ひっかくセヨ。

【字句謹解】◯刺客 人を暗殺する犯罪者 ◯廣澤眞臣 明治維新功臣こうしん〔註一〕參照さんしょう ◯保庇 かばひ助ける ◯逃逸 のがしてしまふ ◯大臣ノ害ニ罹ル者三人 大村おおむら益次郞ますじろう横井よこい小楠しょうなん(當時の參與)及び廣澤ひろざわ眞臣まさおみ〔註二〕參照 ◯不逮 力の及ばぬこと ◯朝憲 國法こくほうに同じ ◯綱紀 のつとり治めてゆくこと、ここでは官廳かんちょう風紀ふうきを意味す ◯ つつしみ、引締ること ◯必獲 必ず捕へる。

〔註一〕廣澤眞臣 長州ちょうしゅうはぎの人、通稱つうしょう兵助ひょうすけつた。明治維新の際、功勞こうろうがあつたので、明治元年參與さんよに任ぜられ、次いで參議さんぎとなり、木戸き ど孝允こういんと肩をならべるほどの勢力があつた。精悍せいかん眉宇び うあふれるといつたやうな人で、議論にも長じ、往々おうおう薩派さっぱの人々にはつよあたるので、けむがられてゐた。ただ何のめに暗殺されたか、一こうにわからず、それに犯人が、いつ迄も不明だつた。眞臣まさおみが世を去つたのは三十九さいの時である。

〔註二〕横井小楠 肥後ひ ご熊本の人、細川侯ほそかわこう世臣せしんで、名を時存ときあり通稱つうしょう平四郞へいしろうつた。年少の時から才氣さいきすぐれ、學問がくもんもよく出來た。天保てんぽう十年、藩主はんしゅの命によつて、江戸に遊學ゆうがくし、有力な學者がくしゃまじわつたがこと藤田ふじた東湖とうこと親しくした。慶應けいおう二年、アメリカに赴き、新知識をもたらして歸朝きちょうすると、されて制度局せいどきょくの判事となり、次いで參與さんよに任ぜられた。れが明治二年一月、暗殺されたのは、つと開國論かいこくろんを唱へ、つキリストきょうを信じたことから誤解されためである。

【大意謹述】參議さんぎ廣澤ひろざわ眞臣まさおみが暗殺されたことは、しんに悲しむべき事だ。ちんはかく大臣をかばひ助けることが出來ぬのみならず、犯人がのがれ去つて、行方ゆくえがわからぬといふことはいかにも殘念ざんねんである。そもそ維新いしん以來いらい、大臣の地位にゐる臣下しんかで暗殺のやくつたものが最早もはや三人に及んでゐる。それは朕が力の及ばぬめで、つまり、國法こくほう面目めんもくが立たず、風紀ふうきみだれてゐるところから、かうした不祥ふしょう事件を生じたのだと思ふ。それは、いかにもうらみ多いことである。よって天下に命令を下し、おごそかに犯人を捜索させ、必ずれを捕へるやうに力を致さねばならない。

48 大友帝に諡を奉るの宣命 明治天皇(第百二十二代)

大友帝おおともおくりなたてまつるの宣命せんみょう(明治三年七月二十三日 太政官日誌)

掛卷近江大津宮御座坐志志天皇大靈大前、正二位行大納言藤原朝臣實則使白給波久。新代伊加志御代萬機改正給利氐、大靈大前敬尊比氐、今年七月今日此日御諡弘文天皇、御幣帛捧奉白給波久止、恐美母

【謹譯】かけくもかしこ後近江のちのおうみ大津宮おおつのみや御座おわしましし天皇すめら大靈おおみたま大前おおまえに、しょうこう大納言だいなごん藤原朝臣ふじわらのあそん實則さねのり使つかいとしてもうしたまはく。新代あたらしきみよのいかし御代み よ萬機ばんき改正あらためただしたまうときあたりて、大靈おおみたま大前おおまえはるかやまいとうとたまひて、今年ことし七月ふづき今日こんにち此日このひ御諡おんおくりな弘文こうぶん天皇てんのうたてまつり、御幣帛みてぐらささたてまつことよしもうたまはくと、かしこかしこみももうす。

【字句謹解】◯掛卷くも 口にかけていふさへも ◯近江大津宮 弘文こうぶん天皇遺蹟いせき天智てんじ弘文こうぶん天皇大津おおつに都を置かれた。三でらの西方、長等ながら山前やまさきには、弘文こうぶん天皇御陵ごりょうがある〔註一〕參照さんしょう ◯大靈 神靈しんれいの意 ◯いかし御代 盛んなる御世み よ ◯萬機 天下の政治。

〔註一〕弘文天皇 天智てんじ天皇長子ちょうしで、はじめ伊賀い が皇子おうじつた。天智てんじ天皇のあとをいで卽位そくいせられたが、叔父君おじぎみ天智天皇の同母弟)大海人おおあまびと(後の天武天皇)と合はず。不和のため、たたかふに至つたが、敗北して、山前やまさきほうぜられた。『日本にほん政記せいき』には「てい文藝ぶんげい多く、すこぶこれを以て人におごる。人、くをねがはず。藤原ふじわら鎌足かまたりは、そのしゅうとなり、屢々しばしば以てげんす、あらためず。ついおよぶ」と記してゐる。「ついおよぶ」とは失敗した意味である。當時とうじは、天皇大友おおともしょうせられたが、本勅ほんちょくによつて、弘文こうぶん天皇諡號しごうおくられた。

〔注意〕本勅ほんちょくと同時に、淳仁じゅんにん仲恭ちゅうきょう天皇にも、同樣どうようのことが行はれた。淳仁じゅんにん天皇は、淡路あわじ廢帝はいていのことで稱德しょうとく孝謙こうけん天皇のために、はいせられ、諡號しごうがなかつた。よってこの時、淳仁じゅんにんおくりなしたのである。また仲恭ちゅうきょう天皇は、九じょう廢帝はいていのことで、北條氏ほうじょうしほろぼさうとされため事敗れてはいせられたが、明治三年仲恭ちゅうきょうおくりなしたのである。

【大意謹述】つつしんで、近江おうみ大津宮おおつのみやにまします天皇御神靈ごしんれい御前みまえに、しょう二位こう大納言藤原朝臣ふじわらのあそん實則さねのり使つかいとしてもうし上げる。王政おうせい復古ふっこの今日、萬事ばんじ面目めんもくを一新し、天下の政治を改め正す盛運せいうんの世にあたり、御神靈ごしんれいたいし、はるかに尊敬の意を捧げる。よって今年七月二十三日、御諡おんおくりな弘文こうぶん天皇しょうし、幣帛みてぐらを捧げて、このむねを告げまゐらせる。

47 岩倉具視ノ勳功ヲ賞スルノ勅 明治天皇(第百二十二代)

岩倉いわくら具視ともみ勳功くんこうしょうスルノみことのり(明治二年九月二十六日 太政官日誌)

【謹譯】なんじ具視ともみ皇道こうどうおとろえうれヒ、おおい恢復かいふくこころざしいだク。つい大政たいせい復古ふっこ基業きぎょうたすケ、もっ天下てんかおもきにんシ、夙夜しゅくや勵精れいせい規畫きかくはかリ、もっ中興ちゅうこうぎょうス。まことくに柱石ちゅうせきちん股肱ここうせつ偉勳いくんミス。すなわ賞賜しょうしシテろうむくユ。ああ將來しょうらい益益ますますのぞことアリ。なんじ具視ともみつとメヨ

【字句謹解】◯岩倉具視 三じょう實美さねとみと共に公卿出く げ でで明治維新いしんに於ける功勞こうろう者。「ともよし」「ともはる」ともしょうするが、世間では一般に「ともみ」というてゐる〔註一〕參照さんしょう ◯皇道ノ衰 我が建國けんこく精神せいしんもとづく天皇親政しんせいの衰へたこと。これは七百年間の武家政治の結果であることは言ふまでもない。なほ、このみことのりは前に謹述きんじゅつした『三じょう實美さねとみ功勞こうろうしょうセラルルノみことのり』(明治二年九月二十六日、太政官日誌)と主旨しゅし同樣どうようで、語句の類似も多い ◯恢復ノ志 王政おうせい復古ふっここころざし ◯大政復古 王政おうせい復古ふっこと同意で、いにしえ天皇親政しんせい御代み よふくせしめること ◯基業 王政おうせい復古ふっこ大業たいぎょうのこと ◯夙夜勵精 朝早くから夜おそくまで國政こくせいせいを出すこと ◯規畫 諸方面の計畫けいかく ◯治ヲ圖リ くに平穩へいおんを目的とする ◯國ノ柱石 一こくの重要なしん ◯朕ノ股肱 天皇の手足として御信賴ごしんらいあるしん

〔註一〕岩倉具視 天保てんぽう九年十四さい元服げんぷくして以來いらい國事こくじつくし、とき公武こうぶ合體がったい論に賛成して、和宮かずのみや御降嫁ごこうかに努力したことから、佐幕黨さばくとうもくせられ、勅勘ちょっかんこうむつて岩倉村いわくらむら閑居かんきょしたことがある。やがて慶應けいおう三年三月に及んで入洛じゅらくを許され、いで勅勘ちょっかんめんされて、國事こくじに全力を注いだ。明治二年にはごん大納言だいなごんに任じ、しょう二位となり四年には外務卿がいむきょう右大臣となり、特命とくめい全權ぜんけん大使たいしとして、歐米おうべい諸國しょこく使つかいして、翌年歸朝きちょうした。七年一月に刺客せっかくのために負傷し、十一年大勳位だいくんいじょせられ、十六年七月二十日、五十九さいこうじた。遺骸いがい品川しんがわる海晏寺かいあんじにほうむり、朝廷から太政だじょう大臣をおくられた。

〔注意〕明治天皇から岩倉いわくら具視ともみたもうた詔勅しょうちょくとして次のものがはいせられる。

(一)岩倉具視ヲしょうスルノ勅語ちょくご(明治二年九月二十六日、太政官日誌)

(二)岩倉具視ノやしき親臨しんりんシテ下シ給ヘル勅語(明治四年八月十八日、岩倉公實記)

(三)特命とくめい全權ぜんけん大使たいしどう副使ふくしニ下シ給ヘル勅語(明治四年十一月四日、太政官日誌)

(四)岩倉具視ノやしき臨幸りんこうさい下シ給ヘル勅語(明治六年十月二十日、岩倉公實記)

(五)岩倉具視ノ上奏じょうそうこたフルノ勅語(明治六年十月二十四日、岩倉公實記)

(六)岩倉具視ノ辭表じひょうほうスルノ勅語(明治七年四月二十八日、岩倉公實記)

(七)右大臣岩倉具視ニ政治ヲ委任スルノ勅語(明治十年一月二十四日、岩倉公實記)

(八)岩倉具視ニ太政大臣おくルノ勅語(明治十六年七月二十三日、岩倉公實記)

(九)岩倉具視ニしょう一位ヲおくルノ勅語(明治十八年七月二十日、岩倉公實記)

(一〇)岩倉具視ノ墓前ニ告クルノ御祭文ごさいもん(明治二十二年二月十一日)

【大意謹述】なんじ具視ともみ、我が皇威こうい衰微すいび心痛しんつうして、いにしえ通りこれを盛大にするこころざしを深く持つて努力をつづけ、王政おうせい復古ふっこの基礎を築きあげるについて貢獻こうけんした所が多い。汝は始終しじゅうちん輔佐ほ さして、天下に重きをし、朝は早くからはおそくまで出精しゅっせいして、天下を太平にする諸策をけんじ、維新いしん大業たいぎょうを完成させた。じつ我國わがくにの基礎たるべき大切なしんであり、朕の手足として信賴しんらい出來で きる。朕は深く汝のすぐれた功績に滿足まんぞくする。今囘こんかい、このゆえ褒賞ほうしょうして、そのろうをねぎらはうと考へる。ああ、朕は今後一そう汝の輔佐ほ さを望む所が多い。汝具視ともみ、更に努力せよ。

46 三條實美ノ功勞ヲ賞セラルルノ勅 明治天皇(第百二十二代)

三條さんじょう實美さねとみ功勞こうろうしょうセラルルノみことのり(明治二年九月二十六日 太政官日誌)

【謹譯】なんじ實美さねとみ皇道こうどう衰運すいうんさいシ、つと恢復かいふくぎょうス。つい天下てんかおもきケ、いでテハすなわ鎭將ちんしょういっテハすなわ輔相ほしょう中興ちゅうこうぎょうス。まことくに柱石ちゅうせきちん股肱ここうちんせつ偉勳いくんミス。すなわ賞賜しょうしシテろうむくユ。ああ將來しょうらい輔導ほどう益益ますますのぞことアリ。なんじ實美さねとみつとメヨ

【字句謹解】◯三條實美 明治維新に於ける公卿く げの先頭となつた功臣こうしんである。履歷りれき大體だいたいかんしては〔註一〕參照さんしょう ◯皇道 我が建國けんこく精神せいしんもとづく天皇御親政ごしんせいのこと ◯夙ニ 早くから ◯恢復ノ業ヲ期ス 王政おうせい復古ふっこ實現じつげんに努力する ◯躬天下ノ重ヲ係ケ 天下の人々の重く信賴しんらいする任に就く意 ◯鎭將 皇軍こうぐん反對はんたい者を討ちほろぼ大將たいしょう ◯輔相 天皇輔佐ほ さして國政こくせい總括そうかつする大臣のこと ◯中興ノ業 王政おうせい復古ふっこ大業たいぎょうすなわ明治維新を意味す ◯國ノ柱石 一こくの基本となる重臣じゅうしん ◯朕ノ股肱 天皇の手足同樣どうよう信賴しんらいしん ◯輔導 天皇たすけ導く ◯益益望ム事アリ 恐れ多くも天皇實美さねとみ將來しょうらい輔導ほどうを期待される意 ◯懋メヨ哉 つとめは『書經しょきょう』に見える語で、つとむと同意、努力せよとおおせられること。

〔註一〕三條實美 ぞう右大臣三じょう實萬さねつむ長子ちょうし文久ぶんきゅう二年、近衞このえ權中將ごんちゅうじょうに任ぜられ、十一月、姉小路あねこうじ公知きんとも東下とうげして勅旨ちょくしを幕府につたへ、攘夷じょうい實行じっこううながした。翌年、長州藩ちょうしゅうはん京師けいしからその勢力驅逐くちくされたとき、廷議ていぎ急變きゅうへん公武こうぶ主義となり、攘夷說じょういせつを主張した實美さねとみらの在朝ざいちょうを許さぬやうになると、にわかに東久世ひがしくぜ通禧みちとみらと一時長州に逃れた。後、罪を許されて、召還しょうかんの命に接し、議定ぎじょうの職に就いて以來いらい始終しじゅう、政府にあつて重きをした。戊辰ぼしんえきが起ると、關東かんとう大監察使だいかんさつしとなり、後、右大臣をて、太政だじょう大臣だいじんに進んだのである。明治十五年、大勳位だいくんいじょし、公爵こうしゃくを授けられ、十八年、太政大臣をやめたとき、內大臣ないだいじんに任ぜられた。十九年、維新いしん以來の功勞こうろうしょうせられて、終身しゅうしん年金ねんきん千圓せんえんたまはり、二十二年、內閣ないかく總理そうり大臣となり、二十四年、東京麻布あざぶ私邸していこうずると、國葬こくそうれいを以てぐうせられた。とし五十五。(『政治經濟篇』参照)

〔注意〕三じょう實美さねとみたもうた明治天皇詔勅しょうちょく列擧れっきょする。

(一)三じょう實美さねとみ修史しゅうし總裁そうさいにんスルノ勅語ちょくご(明治二年四月四日、三條實美公年譜)

(二)三條實美しょうスルノ勅語(明治二年九月二十六日、太政官日誌)

(三)太政だじょう大臣だいじん三條實美ニ政治ヲ委任スルノ勅語(明治五年五月二十二日、三條實美公年譜)

(四)太政大臣三條實美辭表じひょうこたフルノ勅語(明治六年十二月十九日、太政官日誌)

(五)三條實美親任しんにん勅語(明治六年十二月二十五日、太政官日誌)

(六)內大臣ないだいじん三條實美樞密院すうみついん會議かいぎれっセシムルノ勅語(明治二十一年五月十八日、三條實美公年譜)

(七)三條實美しょうじょスルノ勅語(明治二十四年二月十八日、三條實美公年譜)

(八)三條實美ちょうスルノ勅語(明治二十四年二月二十四日、三條實美公年譜)

なほ、實美さねとみの父の實萬さねつむに就いては特に

(九)三じょう實萬さねつむおくりなたまフノ勅語(明治二年十二月二十七日、太政官日誌)

たまはつた。

【大意謹述】なんじじょう實美さねとみは、我が建國けんこく精神せいしんもとづく天皇親政しんせいの道が衰へた時にあたり、早くからそれを昔通りに恢復かいふくするの希望を持つてゐた。かくして天下の人々から重任じゅうにんを受ける地位を占めて、ちょういでては皇軍こうぐんそう指揮者となり、ちょうつては天皇輔佐ほ さする太政だじょう大臣だいじんとなつて、つい維新いしん王政おうせい復古ふっこ事業を大成たいせいさせたのである。じつ國家こっかの基礎となる重臣、ちんの手足として信賴しんらい出來る。朕は心から深くなんじの立てた大功たいこう滿足まんぞくする。今囘こんかい、そのろうむくゆるためになんじしょうする。ああ、朕は將來しょうらい汝が朕をたすけ導く事を一そうこいねがふ。なんじ實美さねとみよ。今後共に努力せよ。

45 幕軍追討ニ功アル人人ニ賜ヘル詔 明治天皇(第百二十二代)

幕軍ばくぐん追討ついとうこうアル人人ひとびとたまヘルみことのり(明治二年六月 明治政覽)

【謹譯】ちんおもんみルニ、皇道こうどうおとろえふくシ、天下てんかできすくフハ、一ニなんじ有衆ゆうしゅうちからル。しかシテせつ巖疆がんきょうテ、遠方えんぽうヘ、艱苦かんく盡萃じんすいいたラサルシ。ちんせつこれ嘉奬かしょうス。すなわ頌賜はんしもっ有功ゆうこうむくユ。かえりみレハ、前途ぜんとはなはとおシ。それ翼賛よくさん大成たいせいセヨ。ちんますますのぞみなんじ有衆ゆうしゅうゆうス。つとメヨヤ。

【字句謹解】◯ 沈沒ちんぼつの意 ◯資ル るに同じ ◯巖疆 けわしいさかい ◯艱苦 いろいろの苦しみ、なやみ。〔註一〕參照さんしょう ◯盡萃 あらゆる力をつくす ◯嘉奬ス 喜びつすすめ、ほめる ◯頌賜 御下賜品おかしひんわかたれること ◯有功 功勞こうろうに同じ ◯翼賛 皇室の御事業ごじぎょうに心を傾け、力を添へまゐらす事 ◯大成 明治維新偉業いぎょうまっとうする事 ◯懋メヨヤ 勉强べんきょうせよの意。

〔註一〕艱苦 明治元年から伏見ふしみ鳥羽と ばたたかひ、更に奥羽おううおもむいて、幕軍ばくぐん追討ついとうした將士しょうしこうしょうせられ、官位かんいを進め、あるい褒賞ほうしょう慰勞いろうたまわり、それぞれ彼等の功勞こうろうむくいられた。いで九月十四日にも、蝦夷え ぞ征討せいとうこうそうした人々に向つても祿ろくたまひ、本詔ほんしょう同樣どうようおおせをつたへられた。更に九月二十六日、王政おうせい復古ふっこに最もこうある人々をしょうせられたのである。(『政治經濟篇』参照)

【大意謹述】今日、衰へた皇道こうどういにしえの如くにおこし、天下の人民を窮苦きゅうくから救ひあげることが出來るやうになつたのは、一に汝等なんじらの力によるところが少くない。汝等は困難な境地にゐて、よく忠節ちゅうせつを守り、皇威こういを遠い地方に迄宣揚せんようし、いろいろの苦勞くろうを積んで、皇道こうどうのため、あらゆる力を捧げた。ちんはこのてんを深く喜悅きえつし、天下にこれあきらかにしたいと思ふ。よっここ賞與しょうよして、その功績にむくいる。ただこの際、かえりみて前途を考へると、まだまだ心をゆるめるわけにはゆかぬ。汝等はこの重要てんを意識して、皇室の天業てんぎょうを助け、これをまっとうすることを心がけてほしい朕は汝等に期待するところが多いから、十分に勉强べんきょうせよ。