90 故本居宣長位階追陞ノ策命 明治天皇(第百二十二代)

本居もとおり宣長のりなが位階いかい追陞ついしょう策命さくめい(明治三十八年十二月十一日)

天皇乃大命爾坐世、贈正四位本居宣長乃墓前爾宜給波久止宣留。

汝命波古學乃道乃蘊奥乎深久究米、許許太久乃書冊乎著述志、君臣乃名分乎正志、內外乃大義乎明爾志氐、世乃諸人乎志氐朝廷乎尊毘奉利、皇國乎崇米敬布心乎起左志米多留大伎功乎賞給比褒給比氐。曩爾正四位乎贈良世給比志賀、猶飽加受思保志⻝志、今囘更爾從三位爾進給比、位記乎授賜布。是乎以氐三重縣知事正五位勳五等有松英義乎差使氐、如此乃狀乎宜給波久止宜留。

【謹譯】

天皇すめら大命おおみことにませ、ぞうしょう本居もとおり宣長のりなが墓前ぼぜんたまはくとる。

汝命みましみこと古學こがくみち蘊奥うんおうふかきわめ、ここだくの書冊しょさつ著述ちょじゅつし、君臣くんしん名分めいぶんただし、內外ないがい大義たいぎあきらかにして、諸人もろびとをして朝廷みかどとうとたてまつり、皇國すめらみくにあがとうとこころおこさしめたるおおいさおたまたまひて、さきしょうおくらせたまひしが、かずぼしめし、今囘こんかいさらじゅすすたまひ、位記い きさずけたまふ。ここて三けん知事ち じしょうくんとう有松ありまつ英義えいぎ使つかはして、かくごとくのさまらせたまはくとる。

【字句謹解】◯本居宣長 我が皇國學こうこくがく先覺者せんかくしゃ、江戸時代に於ける日本精神せいしん發揮者はっきしゃとして知られてゐる。〔註一〕參照さんしょう ◯古學の道 我がくに上古じょうこ神々かみがみ實踐じっせん躬行きゅうこうされた自然の道をあきらかにする學問がくもん。〔註二〕參照 ◯蘊奥を深く究め 學問がくもんの究極の深いてんきわめること ◯ここだくの書冊を著述し 多くの書物を書きあらわす意。〔註三〕參照 ◯君臣の名分を正し きみしんとの間にあきらかな區別くべつを立てる。宣長のりながは一くん萬民ばんみんの思想を日本古典から得て、支那し なの考へが全然これことなるよし隨處ずいしょあきらかにしてゐる ◯內外の大義を明らかにして うちは日本、そと支那し な所謂いわゆる華夷か いべん、日本を中華ちゅうかとし支那し なとした。そしてこの反對はんたい支那を中華とし、日本を夷とした徂徠そらい春台しゅんだい一派とするど對立たいりつしたのである。大義は大きい、大切な義理の意 ◯皇國 皇室を中心とする我が日本のこと ◯曩に正四位を贈らせ給ひしが 明治十六年におくられた。

〔註一〕本居宣長 享保きょうほ十五年五月、伊勢い せ飯高郡いいだかぐん松坂まつざかに生れ、最初小兒科しょうにか醫術いじゅつまなんで一家したが、寶曆ほうれき十一年、賀茂か も眞淵まぶちの門につて古學こがく研鑽けんさんし、明和めいわ元年に『古事記でん』を起稿きこうはじめた。眞淵まぶちの死後名聲めいせいようやあらはれ、寬政かんせい六年紀伊き い德川とくがわ治寶はるたかつかへ我がくに古書こしょ進講しんこうした。古書にたいする宣長のりながの優れた識見しきけんは天下に知られ、門人もんじん日に多きを加へた。享和きょうわ元年九月二十九日、七十二歲で卒去そっきょ皇國こうこくがく上の最も大きな存在であり、かず多い門人のうちで、平田ひらた篤胤あつたねがよくその意を繼承けいしょう發展はってんさせた。

〔註二〕古學の道 我が國體こくたい精華せいかを研究する學問がくもんで、日本古代の神々かみがみが示された道を絕對ぜったい最勝さいしょうなものとして、『古事記』を貫き流れてゐる古代純日本精神せいしん立脚りっきゃくして儒佛じゅぶつを非難攻撃こうげきした學派がくは。普通儒者じゅしゃ中の古學こがく派―山鹿やまが素行そこう・伊藤仁齋じんさいぶつ徂徠そらいの各派―と區別くべつするため國學こくがく又は皇國學こうこくがくしょうする。道とは支那し なの聖人の主張したふうの物ではなく、それ以外に、それ以前に正しい本當ほんとうの道が日本に存在したとふ事をき、「いにしえ大御世おおみよには道といふ言葉も更になかりき」(直毘靈)といふのが主要てんの一つで、日本に於ける道の存在及びその優越性を明白にしようとつとめた。この思想が明治維新の一原動力となつたことにかんしては多くの學者がくしゃいてゐる。

〔註三〕ここだくの書冊を著述し 宣長のりながの著述は『古事記でん』を始めとしてすこぶる多く一々げ切れない。直毘靈なおびのたま神代正語かみよのまさごと馭戎ぎょじゅう慨言がいげん歷朝れきちょう詔詞解しょうしかいたま小櫛おぐし・言葉の玉緒たまのお玉勝間たまかつまたまくしげ・葛花くずばな玉鉾たまぼこ百首・鈴屋集すずのやしゅうなどはその代表的なもので、宣長のりながの知識は我が古道こどう以外に國策こくさく(秘本玉くしげ)・和歌(玉鉾百首)・文法(てにをは紐鏡・字音假字用格)・外交(馭戎慨言)にまで及んでゐる。

【大意謹述】天皇大命たいめいのままに、かつしょう四位をおくられた本居もとおり宣長のりながの墓前におおせられるよしもうし上げる。

 なんじ宣長のりながは、我が國體こくたい精華せいか發揚はつようする古學こがくの道の究極てんをよく研究し、それにかんする多數たすう書物著述ちょじゅつして世を導いた。更に一くん萬民ばんみんの意義及び上下の別を正し、日本と支那し なとの區別くべつ君臣くんしんの道の相違そういから明らかにしたのである。かくして世間の人々をして朝廷を崇拜すうはいせしめると共に、我が皇室を基礎とした祖國そこくたいする自覺じかくふるひ起さしめたその大功たいこうしょうせられ、かつしょう四位をおくらせたもうたが、今囘こんかいじゅに進められ、その地位にのぼされる。よって三重けん知事しょう五位くん五等有松ありまつ英義えいぎ勅使ちょくしとして派遣し、墓前に於いて以上を告げさせるとおおせられた旨を告げまゐらせる。

【備考】宣長のりなが功績こうせきは、支那し な精神せいしんのために不純さを加へた日本文化の醇味じゅんみ飽迄あくまで保持しようとし、思想に學術がくじゅつに、日本精神せいしんを中心とし本位とした新組織を作らうとしたところにある。彼は敬神けいしん尊皇そんこうについて、ことに熱心で、日本がくの成立には、特にいちじるしい力を注いだ。學問がくもん支那し な化から離れて日本化への實現じつげんについては、彼の力によるところが多い。そこに一つの劃期的かっきてき貢獻こうけんがある。

 思ふに、日本の學問がくもんは、在來ざいらい兎角とかく拜外はいがい的に流れ、日本とそれ自身に於て、當然とうぜん、日本流に組織し、日本獨自どくじの材料を整頓して、世界の學界がっかい貢獻こうけんするといふ精神せいしんが乏しかつたと思ふ。外國がいこくの學問は、たとひ、そこに幾多の長所を有するとしても、その材料やその考へ方などにおいて、日本とはちがふし、日本にそのまましつくりあてまるべきものではない。かうした見易い理由と事情とがあるにかかわらず、江戸時代の學者の一ぱんは、支那し なの學問に沒頭ぼっとうして、日本なるものを成立せしめることを忘れてゐた。それは、明治・大正年間にも、やはり、同じ例が多い。しかながら、左樣そ うした情勢に甘んずることは、日本學の不振を意味するのであつて、日本學界の恥辱ちじょくにほかならない。日本としては、獨自どくじの材料と獨自どくじの考察・組織により續々ぞくぞく發見はっけんを世界に示すべきである。本居もとおり宣長のりながの學問上に於ける態度は、これ先驅せんくをしたにほかならぬ。

 彼は、在來ざいらい漢學かんがく者が、支那し なの材料を主とし、支那し な風の見方を第一義とした方法を全く排斥はいせきした。のみならず、支那がくの中心を儒敎じゅきょう易世えきせい革命を是認ぜにんし、(『孟子』などで)また道德どうとく理論にちょうじてゐても、道德どうとく實踐じっせんするところがすくないことをも非難し、そのいたずらに煩瑣はんさに流るるのへい攻擊こうげきしたのである。かうしてれは、日本それ自身の材料により、日本的な見方のもとに、國學こくがくしょうする新しい學問がくもんを完成した。ことに彼は、支那し な思想などの影響をまだあまり受けないとも見られる古代日本文化の上に、日本獨自どくじ道德どうとく精神せいしん發見はっけんし、日本獨自どくじ美所びしょ・長所を見出した。かうして、彼の力により、日本學の上に記憶すべき時代が出來で きたのである。

 思ふに、日本の學問がくもんは、今後、一ぺんせられねばならぬ。ひ換へると一切の學問は日本自身の有する材料を中心とし、それを整理して、一つの體系たいけいが各科の上に作られねばならぬ。その組織・體系たいけいすについての精神せいしんは純日本的であらねばならない。これを政治・法制の上についていへば、英法・佛法ふっぽう獨法どくほうなどのほかに日法にちほう―日本法律を要する。英政えいせい佛政ふっせい獨政どくせいのほかに日政にっせい―日本政治を要する。理化り かとても、博物はくぶつとても、日本理化・日本博物を要する。それらは、一切の學問の上に適用せねばならぬのが當然とうぜんである。

 それには、歐米おうべい的見解を混入してはいけない。づ日本精神せいしん自覺じかくし、日本の國體こくたいを知り、道義どうぎ建國けんこくの旨をも理解して、飽迄あくまでも日本的な見方に立脚りっきゃくすべきである。歐米おうべい的な見方を新しいとし、優れてゐるとするが如きは、華夷か い・內外のべん(旣述して置いた)を知らざるの致すところだ。ここに至ると、日本の學問がくもんはすべて創造の時代に入つてゐるとへよう。歐米おうべい的な學問がくもん支那し な的な學問から離れて、日本獨自どくじの學問を創造すべき重大任務に直面してゐる。

 勿論もちろん歐米おうべいの新しい原書を參考さんこうとすることは、今後も繼續けいぞくせらるべきで、決してそれらを排するのではない。ただ在來ざいらいの如く、歐米おうべい原書の鵜呑う のみ、うけり、鸚鵡おうむ的な引寫ひきうつしなどの陋習ろうしゅう不見識ふけんしきことごとくやめよといふだけのことだ。このてんは、今ほ一部の學者がくしゃによつて繰返され、原書によつて學科がっかを講ずるにあたり、ただそれを演繹えんえきするのみで、獨自どくじの批判を加へない如きは、不見識のはなはだしきものとして、極力、排斥しなくてはならぬ。このは、本居もとおり宣長のりなが學問がくもんの方法、思惟し いの態度について、おしへられてしかるべきである。今は第二の宣長のりながを要する時代で、昭和の日本學が確立せらるべき必然の運命につてゐる。同時に、それは、ひとり、宣長のりなが時代の如く文學のみに限られたことではなく、全學問の組織・材料、體系たいけいの上に及ぼさるべき要求に滿ちてゐるのである。現在の學者・思想家が率先、このてんに目ざめない限り、日本獨自どくじの學問は成立しない。また創造されない。かくて、日本は、いつ迄も學問の上で、歐米おうべい支那し な印度いんどのあとを追うてゐるとのみ考へられることは堪へ難き屈辱ではなからうか。このてんすべての學者・思想家の反省を促し、奮發ふんぱつを要求したい。學問上の日本精神せいしん本位時代!それを速かに實現じつげんしてほしいと思ふ。本居もとおり宣長のりながのことを囘想かいそうするにつけて、これを現代的に考へた結果、以上の所感を附記ふ きした。

89 故西郷從道ヲ弔スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

西郷さいごう從道つぐみちちょうスルノ勅語ちょくご(明治三十五年七月 官報

【謹譯】つと尊王そんのう大義たいぎとなヘテもっ復古ふっこ宏謨こうぼたすケ、文武ぶんぶ要職ようしょく歷任れきにんシテ、內外ないがい機務き む參畫さんかくシ、つい元帥げんすいれっス。雅量がりょう重望じゅうぼうる久ひさしク國家こっか柱石ちゅうせきタリ。いま溘亡こうぼうス、なん痛悼つうとうヘン。ここ侍臣じしんつかわシ、賻賜ふ しもたらシテもっ弔慰ちょういセシム。

【字句謹解】◯西郷從道 西郷さいごう隆盛たかもりの弟〔註一〕參照さんしょう ◯尊王 尊皇そんこうに同じ。日本の皇室・皇道こうどうを尊ぶこと ◯復古ノ宏謨 王政おうせいいにしえふくすところの大業たいぎょう ◯文武ノ要職 文官ぶんかん武官ぶかんとして重き地位を占める ◯內外ノ機務 內政外交の大切な政務 ◯參畫シ あずかつて、計畫けいかくを立てる ◯元帥ノ府ニ列ス 元帥府げんすいふに同じ。それは老功ろうこうで優れた陸海軍りくかいぐん大將たいしょう網羅もうらした役所、すなわ元帥げんすいとなること ◯雅量 胸が大きくひろく、よく人をれる ◯重望 名望めいぼうに同じ ◯國家ノ柱石 國家こっかの柱となりいしずえとなる ◯賻賜 葬儀に供へる賜物たまもの

〔註一〕西郷從道 從道つぐみちのことは、『軍事外交篇』にも記述してある。彼はきゅう薩州さっしゅう藩士はんしで、大西郷だいさいごうの弟であつた。幼名を愼吾しんごといひ、藩の輕卒けいそつから身を起して、茶童ちゃどうとなり、三人扶持ぶ ちるやうになつた。明治維新の際、王事おうじに奔走、そのこうによつて、政府に用ゐられ、明治二年六月、山縣やまがた有朋ありともしたがつてヨオロツパに赴いた。同三年歸朝きちょう、軍務に從事じゅうじし、明治七年の征臺役せいたいのえきには、臺灣たいわん事務都督ととくになつて出征しゅっせい勝利を得て、同年十二月凱旋がいせんした。彼は軍人肌の好漢こうかんで、誰にたいしても磊落らいらくな態度で愛嬌あいきょうふりき、人望があつたのみならず、器度き ども大きいので昇進して、海軍大將となり、元帥げんすいに任ぜられた。その一方政治家としても、相當そうとう重きをし、文相・陸相・農相・內相・海相などにもなり、すこぶ融通ゆうづうが利いたのである。また樞密すうみつ顧問官としても適任であつた。明治二十六年、くだると品川しながわ彌二郞やじろうと提携して國家こっか主義の政社せいしゃ國民こくみん協會きょうかいを組織したが、地方遊說ゆうぜいに赴いた際、鹿爪しかつめらしい演說えんぜつをせず、ただ酒興しゅきょうじょうじて、踊つたのがかえっ歡迎かんげいされたといふ逸話いつわがある。明治三十五年七月薨去こうきょとし五十九。

〔注意〕薩州さっしゅう出身の軍人として、西郷從道つぐみちのほかに野津の づ鎭雄しずお河村かわむら純義すみよしこうじた時、明治天皇から優渥ゆうあく御諚ごじょうたまわつてゐる。野津の づ(陸軍中將)は、鹿兒島かごしま藩士で、文久ぶんきゅう三年、英艦をむかへて激戰げきせんし、明治元年東山道とうさんどう先鋒せんぽうとなつて、白川しらかわ若松わかまつおとしいれた。また七年に於ける佐賀のらん・十年の西南役せいなんのえきにもこうがあつた。大正十三年卒去そっきょ河村かわむら純義すみよし(伯爵、海軍大將)は明治海軍かいぐんの創設者で、明治七年八月海軍中將ちゅうじょうに任ぜられ、海軍大輔たゆうを兼ねた。西南役せいなんのえきが起らうとした折、鹿兒島かごしませられて、種々しゅじゅ官軍かんぐんのためにつくした。明治十一年參議さんぎ海軍卿かいぐんきょうとなり、十八年樞密すうみつ顧問官に任ぜられ、三十七年八月こうじた、とし六十九。

【大意謹述】けいは早くから尊王そんのうの大義を唱へて、王政おうせい復古ふっこ偉業いぎょう實現じつげんするについて力を注いだ。けいは明治政府で、文官ぶんかん武官ぶかん兩方面りょうほうめんに於ける要職をて、內外の重大な政務にあずかり、つい元帥げんすいとなつた。その度量が大きく人望が深いのは今更ふ迄もない。しんくにの柱であり、いしずえである。その人が今世を去つたのは、ちんおいてさびしい思ひがする。つてここ幣帛へいはく供物くもつたずさへて、侍臣じしん弔慰ちょういせしめる。

88 故近衛忠熙ヲ弔スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

近衛このえ忠煕ただひろちょうスルノ勅語ちょくご(明治三十一年三月 官報

【謹譯】かつ多難たなんさいシテ、先帝せんてい機務き む賛輔さんほにんシ、ひさし重望じゅうぼうヒテ、今時こんじ名門めいもん領袖りょうしょうタリ。ちょうテ、よわいちつユ。恪勤かっきんおこたク、勞績ろうせきじつおびただシ。いま溘亡こうぼうス。なん軫悼しんとうヘン。ここ侍臣じしんつかわシ、賻賵ふぼうもたらシテもっ弔慰ちょういセシム。

【字句謹解】◯近衞忠熙 幕末、關白かんぱくの要職にあつた人物〔註一〕參照さんしょう ◯多難 難澁なんじゅうなことが多い ◯機務 政治の大切な務め ◯賛輔 助け補ふ ◯重望 一般から名望家めいぼうかとして重んぜられる ◯名門 華族かぞくなど門閥もんばつの高い家柄いえがら ◯領袖 首領しゅりょうとしてあおがれる ◯四朝ヲ經テ 四代の天子につかへる。この場合は光格こうかく仁孝にんこう孝明こうめい・明治の四天皇 ◯九秩 九十 ◯恪勤 規則正しくせい出して勤める ◯勞績 骨折つたこと ◯溘亡 にわかに病死する ◯賻賵 葬儀を助ける贈物おくりもの

〔註一〕近衞忠熙 ぞうしょう左大臣近衞このえ基前もとさきの子、九歲で元服げんぷくして、じゅ五位にじょし、近衞このえ權少將ごんのしょうしょうとなつた。文政ぶんせい七年正二位內大臣ないだいじんとなり、弘化こうか四年四十歲の時、右大臣に任ぜられた。嘉永かえい以來いらい、天下すこぶる多難、諸藩の志士は續々ぞくぞく京都に集つた。その際、忠煕ただひろは、尊王そんのう攘夷じょういの立場にゐたので、志士ののぞみしょくするところとなつた。孝明こうめい天皇攘夷じょういのことについて、內勅ないちょくを水戸烈公れっこうに下されたことは、忠煕ただひろらの硬論こうろんによるところがあつた。そのため、忠煕ただひろは、幕府ににらまれ、安政あんせい六年二月、落飾らくしょくするのむなきに至つたのである。のち忠煕ただひろ關白かんぱくとなつて一公武こうぶ主義に傾いたので、尊攘そんじょう派の反對はんたいするところとなり、辭職じしょくした。が、孝明こうめい天皇御信任ごしんにん厚く、度々、宸翰しんかん忠煕ただひろたまわつたのである。かくて忠煕ただひろは、朝幕ちょうばくの間につていろいろと力をつくし、勤王きんのうのために、特に心肝しんかん披瀝ひれきしたのである。維新いしんのち忠煕ただひろは身を閑地かんちに置いて、世事せ じと交渉するところなく、しずかに風月ふうげつたのしんで、九十一歲で薨去こうきょした。

【大意謹述】かつ國家こっか多難たなんの際、先帝せんてい孝明天皇)の機務き む參與さんよして、輔佐ほ さ重任じゅうにんまっとうし、久しい間、人望をにのうて、名門中頭首とうしゅであつた。けいは忠義一光格こうかく仁孝にんこう孝明こうめい三帝及びちんつかへ、そのよわい、九十をゆるに至つたことはまれに見る長壽ちょうじゅである。しか平生へいぜい、決して職務を怠ることなく、その功勞こうろういちじるしい。今やけい薨去こうきょの報に接し痛悼つうとうに堪へない。つて侍臣じしんして、幣帛へいはく供物くもつもたらさしめ弔慰ちょういせしめる。

87 元帥府ヲ設クルノ勅 明治天皇(第百二十二代)

元帥府げんすいふもうクルノみことのり(明治三十一年一月 官報

【謹譯】ちん中興ちゅうこう盛運せいうんあたリ、開國かいこく規謨き ぼさだメ、祖宗そそう遺業いぎょう紹述しょうじゅつシ、臣民しんみん幸福こうふく增進ぞうしんシ、もっ國家こっか隆昌りゅうしょうはかラントス。ここちん軍務ぐんむ輔翼ほよくセシムルメ、とく元帥府げんすいふもうケ、陸海軍りくかいぐん大將たいしょううちおいテ、老功ろうこう卓拔たくばつナルもの簡選かんせんシ、ちん軍務ぐんむ顧問こもんタラシメントスその所掌しょしょう事項じこうハ、ちんべつさだムルところラシム。

【字句謹解】◯中興ノ盛運 王政おうせい復古ふっこによつて皇運こううんおおいおこり、時運じうん盛んなこと ◯開國ノ規謨 鎖國さこくをやめて國外こくがいまじわり、文明開化を進める規模 ◯紹述 前人のあとを受けしたがふこと ◯增進 し進める ◯隆昌 さかんにさかえること ◯輔翼 助け補ふ ◯元帥府 元帥げんすい總大將そうたいしょうの意。は役所〔註一〕參照さんしょう ◯老功卓拔 老練ろうれんで特に優れたもの ◯簡選 選び出すこと。

〔註一〕元帥府 元帥げんすいには、かん各一にんの副官が附屬ふぞくする。そして元帥は、天皇陛下の軍事上の最高顧問として奉仕し、時々、みことのりを受けて、陸海軍の檢閱けんえつあたることがある。三十一年、元帥府げんすいふに列した人々は、彰仁あきひと親王(陸軍大將)、山縣やまがた有朋ありとも(同上)、大山いわお(同上)、西郷從道つぐみち(同上)らである。元帥には、元帥とう及び徽章きしょうたまわることになつてゐる。徽章きしょうは制服の右胸うきょう裝著そうちゃくする定めで、軍刀ぐんとうには特殊の美しい裝飾そうしょくほどこされてゐる。

【大意謹述】ちん今日こんにち中興ちゅうこう盛運せいうんに臨めるときにあたり、ひろく海外諸邦しょほうと交際するの規模を定め、祖先そせん以來いらい遺業いぎょうを受けいで國民こくみん幸福こうふくし、かくして國運こくうんの盛んならんことに努めてゐる。ここに朕が軍務を輔佐ほ させしむるため元帥府げんすいふを設け、陸海軍りくかいぐん大將たいしょううち老練ろうれんで人格・才能共に優れたものをえらび、朕の軍事顧問たらしめようと思ふ。そのつかさどるところの事柄については、別に定むるところにしたがはしめる。

86 故後藤象二郞ヲ弔スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

後藤ごとう象二郞しょうじろうちょうスルノ勅語ちょくご(明治三十年八月 官報

【謹譯】王政おうせい復古ふっこ大義たいぎ痛論つうろんシテ、群議ぐんぎはいシ、皇國こうこく囘天かいてん偉業いぎょう毗賛ひさんシテ、もっ國是こくぜかたクス。膽略たんりゃく機宜き ぎおうシ、勳名くんめい時流じりゅうユ。いま淪亡りんぼうク。なん軫悼しんとうヘン。ここ侍臣じしんつかわシ、賻賵ふぼうもたらシ、もっ弔慰ちょういセシム。

【字句謹解】◯後藤象二郞 土佐と さの出身の豪傑ごうけつ〔註一〕參照さんしょう ◯王政復古ノ大義 覇道はどうによる武家政治のしりぞけて、王道おうどう主義による皇政こうせいの正しい義をあきらかにする。日本の政治は天皇親政しんせいを必然の原則とし特質とするの義 ◯痛論 口を極めて手づよ論明ろんめいする ◯群議 周圍しゅういでがやがや論じ立てること ◯囘天ノ偉業 國勢こくせい挽囘ばんかいする所の大きい仕事、ここでは武家政治をくつがえして、王政おうせい復古ふっこ實現じつげんする大業たいぎょうのこと ◯毗賛 厚くたすく ◯國是 くにの根本方針 ◯膽略 たんが大きく機略きりゃくむ ◯機宜 處置しょちよろしきやう時機におうじて行ふこと ◯勳名 手柄てがらした事によつて名高くなる ◯時流 當時とうじの人物 ◯淪亡 薨去こうきょの義に同じ ◯軫悼 いたましく思ふこと ◯賻賵 葬儀を助ける贈物おくりもの

〔註一〕後藤象二郞 きゅう高知藩士はんしで、天保てんぽう九年、土佐片町かたまちに生れた。名は元曄もとあき靑年せいねん時代に江戸に遊學ゆうがくして、幕士ばくし大鳥おおとり圭介けいすけについて、英語をまなび、のち元治げんじ元年歸國きこく大目付おおめつけ參政さんせい家老かろうとなつた。維新いしんの際には、さかんに勤王說きんのうせつを唱へ、坂本さかもと龍馬りょうまと計つて、藩主はんしゅ山內やまのうち容堂ようどう(豐信)に大政たいせい奉還ほうかんの必要を力說りきせつしたので、容堂ようどうまたこれに動かされ、しょうろうに命じて、一しょ將軍しょうぐん德川とくがわ慶喜よしのぶていし、切に大政たいせい奉還ほうかんすべきことをすすめたのである。この際に於ける象二郞は、その豪宕ごうとう俊邁しゅんまいの性質を發揮はっきし、たくみに慶喜よしのぶを動かしたのである。容堂ようどう慶喜よしのぶ捧呈ほうていした書は左の如くであつた。

誠惶せいこう誠恐せいきょうつつしんで建言けんげん仕候つかまつりそうろう。天下憂世ゆうせい、口をきんしてあえて言はざるに至りそうろうは、まことおそるべきの時にそうろう。朝廷・幕府・公卿く げ諸侯しょこう旨趣ししゅあいたがふのじょうあるに似たり。まことおそるべきの事にそうろうこのわれ大患たいかんにしてかれ大幸たいこうなりかれさくここおいれりふべくそうろうかくの如き事態におちいそうろうは、其責そのせめ至竟しきょうたれすべきや。しか旣往きおう是非ぜ ひ曲直きょくちょ喋々ちょうちょう辯難べんなんするとも、何のえきかあらん。ただねがわくは大活眼だいかつがん大英斷だいえいだんを以て、天下萬民ばんみんと共に一心協力、公明こうめい正大せいだいの道理にし、萬世ばんせいわたつてぢず。萬國ばんこくりんしてぢざるの大根柢だいこんていを建てざるべからず。この旨趣ししゅ前月上京のみぎりにも、追々おいおい建言けんげん仕候つかまつりそうろう心得こころえ御座候ござそうらども何分なにぶん阻當さしあたり(差支?)のすじのみこれあり。其內そのうちはからずも舊疾きゅうしつ再發さいはつつかまつむを得ず歸國きこく仕候つかまつりそうろう以來いらい起居ききょ動作どうさいえども、不随意ふずいいの事に成至なりいたり、再上さいじょう暫時ざんじあい調ととのひ申さずそうろうは、まこと殘憾ざんかんの次第にて、只管ひたすら此事このことのみ日夜焦心しょうしん苦慮くりょ罷在候まかりありそうろうよっ愚存ぐぞんおもむき、一二家來共けらいどもを以て言上ごんじょう仕候つかまつりそうろうただ幾重いくえにも公明こうめい正大せいだいの道理にし、天下萬民ばんみんと共に、皇國こうこくすう百年の國體こくたいを一ぺんし、至誠しせいを以て萬國ばんこくに接し、王政おうせい復古ふっこぎょうを建てざるべからざるの一大機會きかいぞんたてまつそうろう。又別紙御細覽ごさいらんおおせつけられたく懇々こんこん至情しじょう默止もくしし難く、泣血きゅうけつ流涕りゅうていの至りにへずそうろう

  慶應けいおう三年ひのと九月   松平まつだいら容堂ようどう

  ◯別紙

宇內うだいの形勢・古今の得失にかんがみ、誠惶せいこう誠恐せいきょう稽首けいしゅ再拜さいはいしておもんみるに、皇國こうこく興復こうふく基業きぎょうを建てんと欲せば、國體こくたいを一定し、制度を一新し、王政おうせい復古ふっこ萬國ばんこく萬世ばんせいぢざる者を以て本旨ほんしとすべし。かんを除き、りょうげ、寬恕かんじょまつりごと施行しこうし、ちょうばく諸侯しょこうひとしくこの大基本に注意するを以て、方今ほうこん急務きゅうむぞんたてまつそうろう。前月四はん(越前・土州・宇和島・薩州)上京つかまつり、一二獻言けんげんの次第もこれあり、容堂ようどう病症びょうしょうよっ歸國きこく仕候つかまつりそうろう以來いらい猶又なおまたとく熟慮じゅくりょ仕候つかまつりそうろうに、じつに容易ならざる時態じたいにて、安危あんきけつ今日こんにちにこれあるやに愚慮ぐりょ仕候つかまつりそうろうよって早速再上さいじょう仕候つかまつりそうろうて、右の次第一々及ばずながら建言けんげん仕候つかまつりそうろう志願しがん御座候處ござそうろうところ、今にいたりて病症難澁なんじゅうつかまつり、むを得ず微賤びせん私共わたくしどもを以て愚存ぐぞんおもむきおそなが言上ごんじょうつかまつらせそうろう

 一、天下の大政たいせいを議する全權ぜんけんは朝廷にあり。すなわわが皇國こうこくの制度・法則一切萬機ばんき必ず京師けいし議政所ぎせいじょよりづべし。

 一、議政所ぎせいじょ上下しょうかわかち、議事官ぎじかんじょう公卿く げ陪臣ばいしん庶民しょみんに至る迄、正明せいめい純良じゅんりょう選擧せんきょすべし。

 一、痒序しょうじょ學校がっこう都會とかいの地に設け、長幼ちょうようじょわかち、學術がくじゅつ技藝ぎげい敎導きょうどうせざるべからず。

 一、一切外蕃がいばんとの規約は、兵庫港に於て、あらたに朝廷の大臣と諸藩しょはんあいし、道理明確の新條約しんじょうやくを結び、誠實せいじつに商法を行ひ、信義を外蕃がいばんに失はざるを以て主要とすべし。

 一、海陸かいりく軍備は一大至要しようとす。軍局を京攝きょうせつの間に築造し、朝廷守護の親兵しんぺいとし、世界に比類なき兵隊とさんことを要す。

 一、中古以來いらい政刑せいけい武門ぶもんづ。洋艦ようかん來港らいこう以後、國家こっか多難たなんここに於て政權せいけん稍々や や動く。これ自然のいきおいなり。今日こんにちに至り、古來こらい舊弊きゅうへいを改新し、枝葉しようせず、小條理しょうじょうりとどまらず、大根基たいこんきを建つるを主とす。

 一、朝廷の制度・法則、從昔じゅうせき律例りつれいありといえども、方今ほうこん時勢じせい參合さんごうし、間々ま まあるい當然とうぜんならざるものあらん。よろしく弊風へいふうを除き、一新改革して、地球上に獨立どくりつするの國本こくほんを建つべし。

 一、議事の大夫たゆう私心ししんを去り、公平にもとづき、術策じゅっさくを設けず。又正道せいどうを旨とし、旣往きおう是非ぜ ひ曲直きょくちょを問はず。

 一新更始こうし、今後の事を見るを要す。言論多く實效じっこう少き通弊つうへいむべからず。右の條目じょうもくおそらくは當今とうこんの急務、內外各般かくはん至要しようこれを捨ててに求むべきものはこれあるまじくとぞんたてまつそうろうしからばすなわち職にあたるもの、成敗せいばい利鈍りどんかえりみず、一心協力、萬世ばんせいわたつて貫徹致し候樣そうろうようこれありたくあるい從來じゅうらいの事件を執り、辯難べんなん抗論こうろんちょうばく諸侯しょこうたがいあいあらそふの意あるはもっとしかるべからず。すなわ容堂ようどうの志願に御座候ござそうろうよっ愚昧ぐまい不才ふさいかえりみず、大意建言けんげん仕候つかまつりそうろうついてはおそながら、是等これらの次第むなしく御聽捨おききずて相成あいなりそうらえては、天下のめ、遺憾いかんすくなからずそうろう。又此上このうえ寬仁かんじん御趣意ごしゅいを以て、微賤びせん私共わたくしどもいえども、御親問ごしんもんおおせつけられたく懇願こんがんたてまつそうろう

 慶應けいおう三年ひのと九月  松平土佐守とさのかみ豐範とよのり

             寺村てらむら左膳さぜん 後藤ごとう象二郞しょうじろう 福岡ふくおか藤次とうじ 神山かみやま左多衞さ た え

 象二郞しょうじろうは、以上の旨によりたち働いて、王政おうせい復古ふっこ實現じつげんに努力した。維新いしん後、彼はちょうされて、參與さんよ外國がいこく事務係となり、次いで總裁局そうさいきょく顧問・工部こうぶ大輔だゆう參議さんぎ等を歷任れきにんした。明治六年、征韓論せいかんろんが起ると、征韓せいかん派の板垣いたがき退助たいすけらと共に辭職じしょくし、民選みんせん議院ぎいん設立について、種々しゅじゅ力をつくした。のち、海外に漫遊まんゆう歸朝きちょうすると、明治二十年、大同だいどう團結だんけつを政界に唱へて、一全國ぜんこく風靡ふうびし、後藤の勢力を政界の一方に扶植ふしょくした。が、やがて薩長さっちょう政府と妥協し、逓信ていしん大臣・農商務のうしょうむ大臣となり、明治三十年八月、薨去こうきょした。時にとし六十。