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48-1 石淸水臨時祭の宣命 孝明天皇(第百二十一代)

石淸水いわしみず臨時祭りんじさい宣命せんみょう(第一段)(弘化四年四月 孝明天皇紀)

天皇、掛畏石淸水御座世留八幡大菩薩廣前美毛申賜倍止、去天祿元年與利奉出給宇津御幣、吉日良辰擇定、官位姓名差使令捧持、東遊走馬調備奉出賜。掛畏大菩薩、平聞⻝天皇朝廷、寶位無動常磐堅磐夜守日守護幸、天下國家乎毛守幸賜倍止美毛申賜者久止申。

【謹譯】天皇すめらみことと、けまくもかしこ石淸水いわしみず御座おわしませる八幡はちまん大菩薩だいぼさつひろきみまえかしこかしこみももうたまはくともうさく、いぬ天祿てんろく元年がんねんよりはじめていだまつたま宇津う づ御幣みてぐらを、吉日きちにち良辰りょうしんえらさだめて、官位かんい姓名せいめい使つかわしてささたしめて、東遊あずまあそはしうま調ととのそなへていだまつたまふ。けまくもかしこ大菩薩だいぼさつたいらけくやすらけくきこしめして、天皇すめら朝廷みかどを、寶位ほういうごきなく常磐ときわ堅磐かきわに、夜守よ もりに日守ひ もりにまもさきはへたまひ、天下てんか國家こっかをもたいらけくやすらけくまもさきはへたまへとかしこかしこみももうたまはくともうす。

【字句謹解】◯天祿元年より云々 石淸水いわしみず臨時祭りんじさいが年中の恒例となつた年のことである。〔註一〕參照 ◯宇津の御幣 宇津う づとうとく珍らしい意、御幣みてぐらは神にたてまつ幣帛へいはく ◯東遊び走り馬 關東かんとう地方の遊びで競馬用の馬、走り馬とは非常な速力を持つた馬、かつて源氏・北条氏などの家臣が競馬に使用したものと同じであるから、「寶位ほうい動きなく」にかかる語句。

〔註一〕天祿元年より 石淸水いわしみず臨時祭りんじさいの起原は、朱雀すざく天皇平將門たいらのまさかど藤原純友ふじわらのすみともらんの平定をいのられて、天慶てんぎょう五年四月二十七日に行つたことにある。のち圓融えんゆう天皇天祿てんろく二年以來、それが恒例となつた。本詔ほんしょう天祿てんろく元年とはいせられるのは、一般のせつ天祿てんろく二年―と一致しない。

【大意謹述】天皇おおせにより、おそなが石淸水いわしみず鎭座ちんざまします八まん大菩薩だいぼさつ廣大こうだい御前みまえつつしんで申し上げる。臨時祭が年中の恒例となつた最初の年、かの圓融えんゆう天皇天祿てんろく元年に奉納せられたとうとく珍らしい御幣ごへいと同種のものを、最上の星𢌞ほしまわりの日をえらび、別記の位にあるぼう勅使ちょくしとして捧げ持たせ、東國とうごくの競馬用の馬を用意して奉納しまゐらす。おそなが大菩薩だいぼさつに於かせられては、このありさを平安にきこしめし、日本中を平和に、朝廷に就いては、永久に變化へんかなく微動だもしない大石たいせきのやうに、皇位こういの基礎を動かす者なく、晝夜ちゅうや共に加護か ごあつて幸福こうふくを下され、全國も無事平穩へいおんに守護して幸ひをあたへられるやう、つつしんで申し上げる。

47 僧法然に大師號を賜ふの勅 光格天皇(第百十九代)

そう法然ほうねん大師號だいしごうたまふのみことのり(文化八年正月 海錄)

朕聞、道不自弘、弘必由人。物不自覺、覺必待師。緬惟、故吉水源空和尙、少在叡峯、博學之名夙彰。老居吉水、專行之德彌高、戒珠明朗、隋和讓其光、慧刀銳利、干鏌愧其鈍兮。▯難易於聖淨、揀優劣正雜。體二尊之大悲、揚三師之徽猷。於是若善若惡、揖若域而長別無賢無愚、望樂邦、以高馳。貴賤歸嚮、化風扇於一時、緇素信服、慈澤流於百世。嗚呼、如和尙、其弘道之哲人、覺物之良師乎。三朝先皇、旣賜佳號、以旌盛德。茲丁六百周之忌辰、朕亦更加、以弘覺大師之諡。

【謹譯】ちんく、みちおのずかひろまらず、ひろまるはかならひとる。ものおのずかさとらず、さとるはかならつと。はるかにおもふに、吉水よしみず源空げんくう和尙わしょうわかくして叡峯えいほうにあり、博學はくがくつとあらはれ、いては吉水よしみずり、專行せんぎょうとくいよいよたかし。戒珠かいじゅ明朗めいろう隋和ずいかひかりゆずり、慧刀えとう銳利えいり干鏌かんばくどんづ。難易なんい聖淨しょうじょうに▯し、優劣ゆうれつ正雜しょうぞうる。二そん大悲だいひたいし、三徽猷きゆうぐ。ここいてもしくはぜんもしくはあくなんじいきゆうしてとこしへに無賢むけん無愚む ぐわかち、樂邦らくほうのぞんでもったかす。貴賤きせん歸嚮きこう化風かふうを一あおぎ、緇素し そ信服しんぷく慈澤じたくを百せいながす。嗚呼あ あ和尙わしょうごとき、弘道ぐどう哲人てつじん覺物かくぶつ良師りょうしなるか。三ちょう先皇せんこうすで佳號かごうたまひ、もっ盛德せいとくあらわす。ここに六百周しゅう忌辰きしんあたり、ちんまたさらくわふるに、弘覺こうかく大師だいしおくりなもってす。

【字句謹解】◯道自ら弘まらず云々 いずれの宗敎しゅうきょうにしても自然のままで世にひろまるものではなく、必ず熱心にそれをほうじ、弘通ぐつうに努力する人の手をつてのちひろまるものであるとの意 ◯物自ら覺らず云々 前句と同意を受動的にいたもので、道をさとる方でも自然にさとるなどといふことはなく、必ず熱心なを得て、その力につてさとることが出來るとの意 ◯吉水 源空げんくうが晩年ここで圓修えんしゅう及び大乘だいじょうの法をいた場所で、洛東らくとうにある ◯源空和尙 我が國淨土宗じょうどしゅう開祖かいそ法然ほうねん上人しょうにんのこと。〔註一〕參照 ◯叡峯にあり 法然ほうねんが十三歳の時に比叡山ひえいざんのぼり、西塔さいとう北谷寺ほっこくじ阿闍梨あじゃり源光げんこうに就いて天台宗てんだいしゅうまなんだこと。叡峯えいほうとは天台宗てんだいしゅうの本山比叡山ひえいざんの意である ◯夙に彰はれ 早くから四方に知れ渡る ◯專行の德 一心になつて淨土宗じょうどしゅう修行しゅぎょうしたとく ◯彌高し ますます高まつてく ◯戒珠明朗 敎戒きょうかいの內容が非常に明らかで、誰にでも行ひ得るし理解出來る意。〔註二〕參照 ◯隋和其の光を讓り 隋和ずいか美質びしつたまのことで、ずい隋侯ずいこうが蛇を助けたためにその蛇がれいたてまつつた美玉びぎょくの意、卞和べんか厲王れいおうけんじた美玉びぎょくのこと、前者は『淮南子えなんじ』にあり、後者は『戰國策せんごくさく』に見える。これらの美しいたま淨土宗じょうどしゅう敎戒きょうかいの美しさにははるかに及ばないこと ◯慧刀銳利 智慧ち えするどいことを刀にたとへたもの ◯干鏌其の鈍を愧づ 干鏌かんばくは古代の二つの名劔めいけんの名で、『呉越春秋ごえつしゅんじゅう』によれば、呉王ごおう闔閭こうりょめいを受けた干將かんしょうといふ男が、五ざんせい・六きんえいつて二けんを作り、陽劔ようけんには自分の名の干將かんしょうといふごうをつけ、陰劔いんけんには妻と同じ莫邪ばくやといふごうをつけたとある。干鏌かんばくとは干莫かんばくとも書き、この二けんごうを一つづつ取つたので一般に名劔めいけんのことになる。これらのするど名劔めいけんも、法然ほうねん智慧ち えするどさには負けるとの意 ◯難易 難行道なんぎょうどう易行道いぎょうどう ◯聖淨 聖道門しょうどうもん淨土門じょうどもん ◯正雜 專修せんしゅ正行しょうぎょう雜修ざっしゅ雜行ぞうぎょう。以上三句〔註二〕參照 ◯二尊 釋迦しゃか彌陀み だの二そん ◯三師 釋尊しゃくそん天台てんだい傳敎でんぎょうを三ごくしょうする。釋尊しゃくそん印度いんど佛敎上ぶっきょうじょう天台てんだい支那し な佛敎上ぶっきょうじょう傳敎でんぎょうは日本佛敎上ぶっきょうじょうといふ意 ◯徽猷 よい計畫けいかくのこと ◯若くは善若くは惡 善人ぜんにん惡人あくにんもの意 ◯若の域に揖して 淨土宗じょうどしゅうを信仰しての意 ◯無賢無愚を別ち 淨土宗じょうどしゅう所謂いわゆる念佛ねんぶつ往生おうじょうで、念佛ねんぶつを唱へれば賢愚けんぐの別なく往生おうじょう出來るのであるから、賢愚けんぐの差別を人々から失はせること ◯樂邦 極樂ごくらく淨土じょうどへ導く黑谷くろだにのこと ◯高く馳す 四方から集まる ◯貴賤歸嚮 社會的しゃかいてきに身分の高い者も低い者も同じやうにこのしゅう歸依き えする ◯化風を一時に扇ぎ この時代の一世を風靡ふうびする力のある意 ◯緇素信服 僧侶そうりょ神官しんかんの意、他派た は僧侶そうりょ神官しんかんですらも淨土宗じょうどしゅうを信仰し、その敎義きょうぎふくする ◯弘道の哲人 最初の「みちおのずかひろまらず、ひろまるは必ず人にる」を受けたので、正しい道を世にひろめる指導者の意、哲人てつじんは偉人のこと ◯覺物の良師 これも「ものおのずかさとらず、さとるは必ずを待つ」を受けたので、人々に正しい道を敎戒きょうかいするこの上もないの事 ◯三朝の先皇旣に佳號を賜ひ 過去に於いて三代の天皇が各自追號ついごうたまうてよみされた意。三代の天皇とは東山ひがしやま天皇中御門なかみかど天皇桃園ももぞの天皇を指したてまつる。〔註三〕參照 ◯六百周の忌辰に丁り 六百周忌しゅうきあたつての意、源空げんくうじゃくした順德じゅんとく天皇建曆けんりゃく二年正月二十五日(皇紀一八七二年)から本詔ほんしょうくだされた文化ぶんか八年正月十八日(皇紀二四七一年)までは六百年をてゐる ◯ 故人こじん盛德せいとくよみせられてあたへられる名稱めいしょうのこと。

〔註一〕法然の一生 我が國淨土宗じょうどしゅう開祖かいそ源空げんくうは、崇德すとく天皇長承ちょうしょう二年四月七日に生れ、父は美作國みまさかのくに久米押領使くめおうりょうし漆間時國うるまのときくにで、母は秦氏はたししょうしてゐた。幼名ようめい勢至丸せいしまるといつたが、九歳の時に父は北面ほくめんの武士明石あかし定明さだあきうらみを買つてきずつけられ、その遺言によつて出家したとつたへられてゐる。十三歳の時に比叡山ひえいざんのぼり、西塔さいとう北谷きただに源光げんこうに就いて天台宗てんだいしゅうまなび、名を善信ぜんしん圓明えんめいと改めた。けれども、佛敎ぶっきょうたいする熱意がなく、いたずら利權りけんあらそつてゐる當時とうじ比叡山ひえいざん僧侶そうりょ滿足まんぞく出來ず、十八歳の時、そこを出て西塔さいとう黑谷くろだに叡空えいくうの門に入り、法然ほうねんぼう源空げんくうと改めた。かくて叡空えいくうから授つた慧心えしん僧都そうづの『往生おうじょう要集ようしゅう』に感激し、研修けんしゅう苦心くしんの結果、純他力じゅんたりき淨土門じょうどもん安心あんしん立命りつめいの地を見出し、安元あんげん元年四十四歳の時、黑谷くろだにいで洛東らくとう吉水よしみずに到り、一こう專念せんねん淨土門じょうどもんを開き、京洛きょうらくの內外を風靡ふうびした。その後、他宗の壓迫あっぱくで土佐に流され、後に赦免しゃめんめいこうむつたが、入京にゅうきょうを許されず、攝津せっつ勝尾寺かちのをでらとどまつて、道俗どうぞく濟度さいどし、建曆けんりゃく元年十一月に入洛じゅらくして東山ひがしやま大谷おおたにに住み、翌二年正月二十五日、八十二歳でじゃくした。『法然ほうねん上人しょうにん行狀ぎょうじょう畫圖え ず』には、その時の樣子ようすを記して、「慈覺じかく大師だいしの九じょう袈裟け さをかけ、頭北ずほく面西めんさいにして、光明こうみょう遍照へんじょうぽう世界せかい念佛ねんぶつ衆生しゅじょう攝取せっしゅ不捨ふしゃふみをとなへて、ねぶるがごとくして、いきえたまひぬ」とある。

〔註二〕淨土宗 根本敎義は、彌陀み だ本願ほんがん念佛ねんぶつ往生おうじょうねがいとし、念佛ねんぶつ凡夫ぼんぷの一切を往生させるとしたてんにある。つまり阿彌陀佛あみだぶつ眞如しんにょを理想的に體現たいげんしたもので、人々を極樂ごくらく往生おうじょうさせる力があるから、衆生しゅじょうはただ一心になつて念佛ねんぶつを唱へれば佛陀ぶっださとりを開きるといふので、絕對ぜったい他力たりき本願ほんがん主義であつた。この要旨ようしを最も明瞭めいりょうにしたものに、法然ほうねん寂前じゃくぜん三日に書かれた有名な起請文きしょうもんがある。「もろこし、我がちょうにもろもろの智者ちしゃたちの沙汰さ たし申さるる觀念かんねんの念にもあらず、又學文がくもんをしてねんの心をさとりて申す念佛ねんぶつにもあらず。ただ往生おうじょう極樂ごくらくのためには南無阿彌陀佛なむあみだぶつと申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の些細しさいそうらはず。ただし三じんしゅうと申す事のそうろうは、皆決定けつじょうして南無阿彌陀佛あむあみだぶつにて往生するぞと思ふ內にこも候也そうろうなりほかに奥深き事をぞんぜば、二そんのあはれみにはずれ、本願ほんがんにもれそうろうべし。念佛ねんぶつを信ぜん人は、たとひ一代の法を能々わざわざがくすとも、一もん不知ふ ち愚鈍ぐどんの身になして、あま入道にゅうどう無智む ちともがらおなじうして、智者ちしゃのふるまひをせずして、ただ一かうに念佛ねんぶつすべし」とあり、「淨土宗じょうどしゅう安心あんじん起行きぎょうの一至極しごくせり、源空げんくうが所存、ほかに全く別義べつぎそんせず」云々うんぬんと記されてある。熊谷くまがい次郞じろう直實なおざね宇都宮うつのみや彌三郞やさぶろう賴綱よりつなの如き武人がこの宗に歸依き えしたのも、全く他力本願が中心となつてゐるからだつた。なほ、宗敎しゅうきょう詩人としての法然ほうねんが、淨土宗じょうどしゅう敎戒きょうかいいたかず多くの和歌の內から二三をしょうする。

  往生おうじょうはよにやすけれど皆人みなひと

      まことの心なくてこそせね

  阿彌陀佛あみだぶつと申すばかりをつとめにて

      淨土じょうど莊嚴しょうごん見るぞうれしき

  極樂ごくらくへつとめて早くで立てば

      身の終りにはまいりつきなん

〔註三〕旣に佳號を賜ひ 法然ほうねん上人しょうにん諡號しごうは、明治天皇に至るまで、次のやうに多數たすうかぞへられる。如何い かれの宗敎上しゅうきょうじょうの感化・勢力が大きかつたかを想はしめる。

(一)後鳥羽ご と ば天皇文治ぶんじ四年―慧光えこう菩薩ぼさつ(二)四條しじょう天皇天福てんぷく年中―華頂尊者かちょうそんじゃ(三)後嵯峨ご さ が天皇寬元かんげん二年正月十日―通明國師つうみょうこくし(四)後花園ごはなぞの天皇天下てんげ上人しょうにん無道むどう心者しんじゃ(五)後柏原ごかしはばら天皇太平たいへい年中―光照大士こうしょうだいし(六)東山ひがしやま天皇元祿げんろく十年正月十八日―圓光えんこう大師だいし(七)中御門なかみかど天皇寶永ほうえい八年正月十八日―東漸とうぜん大師だいし(八)桃園ももぞの天皇寶曆ほうれき十一年正月十八日―慧成えじょう大師だいし(九)光格こうかく天皇文化ぶんか八年正月十八日―弘覺こうがく大師だいし(一〇)孝明こうめい天皇萬延まんえん二年正月十八日―慈敎じきょう大師だいし(一一)明治天皇、明治四十四年二月二十五日―明照大師めいしょうだいし

〔注意〕源空げんくう淨土宗じょうどしゅうが他力本願であつたことから武士の間に盛力せいりょく、一方その門下から高僧こうそうが多く輩出はいしゅつしたので、この宗は時と共に盛大となり、增上寺ぞうじょうじ知恩院ちおんいんと東西に別れて江戸時代に至り、更に明治となつて三河みかわ以西を西部、遠江とおとうみ以東を東部と定め、二十年三月に一しゅう統治の法を確定した。又、本宗から出て別に一派をなしたものに西山せいざん派・鎭西ちんぜい派・長樂寺ちょうらくじ派・九品寺くほんじ流・一念義ねんぎなどがある。

 本勅ほんちょくの前後、我が近世史上、僧侶そうりょごうあるい諡號しごうおくられた例が大分だいぶ多い。特に孝明こうめい天皇御代み よには、この種のものが多數たすう見出される。次に後伏見ごふしみ天皇以下孝明こうめい天皇に至るまでの、その類例を示す。

(一)そう叡尊えいそん菩薩號ぼさつごうおくるのみことのり後伏見天皇正安二年閏七月、奥正菩薩傳)(二)僧益信えきしん大師號だいしごうたまふの勅(後二條天皇德治三年二月、東寶記)(三)僧惠雲えうん禪師號ぜんしごうを賜ふの勅(花園天皇正和三年四月、花園院御記)(四)僧信空しんくう追號ついごうの勅(後醍醐天皇法皇外紀)(五)僧智及ちきゅうに禪師號を賜ふの勅(後小松天皇法皇外紀)(六)僧中津ちゅうしん國師號こくしごうを賜ふの勅(稱光天皇法皇外紀)(七)僧宗曇そうどんに禪師號を賜ふの勅(後花園天皇法皇外紀)(八)僧靈彥れいげんに禪師號を賜ふの勅(後土御門天皇法皇外紀)(九)僧善譽ぜんよに禪師號を賜ふの勅(後柏原天皇、永正十二年六月、拾芥記)(一〇)僧禪庵ぜんあんに禪師號を賜ふの勅(永正一二年九月、拾芥記)(一一)僧禪瑞ぜんずいに禪師號を賜ふの勅(永正十二年十二月、拾芥記)(一二)僧宗紀しゅうきに禪師號を賜ふの勅(永正十三年三月、拾芥記)(一三)僧義亨ぎこうに禪師號を賜ふの勅(後柏原天皇法皇外紀)(一四)僧惠玄えげんに國師號を賜ふの勅(後奈良天皇法皇外紀)(一五)僧紹喜しょうきに國師號を賜ふの勅(正親町天皇法皇外紀)(一六)南化なんげ禪師ぜんしに國師號を賜ふの勅(後陽成天皇慶長十年五月、妙心寺塔頭隣華院藏)(一七)僧法然ほうねん大師號だいしごうを賜ふの勅(光格天皇文化八年正月、海錄)(一八)僧景巴けいわに禪師號を賜ふの勅(孝明天皇弘化四年五月、孝明天皇紀)(一九)僧禪悅ぜんえつに禪師號を賜ふの勅(弘化四年五月、孝明天皇紀)(二〇)僧大觀たいかんに禪師號を賜ふの勅(嘉永二年十一月、孝明天皇紀)(二一)僧道元どうげんに國師號を賜ふの勅(安政元年二月、孝明天皇紀)(二二)僧亮深りょうしんを三ぐうじゅん牛馬ぎゅうばを賜ふの勅(安政二年三月、孝明天皇紀)(二三)僧濟宗さいしゅうに禪師號を賜ふの勅(安政三年二月、孝明天皇紀)(二四)僧月珊げっさんに禪師號を賜ふの勅(安政三年四月、孝明天皇紀)(二五)僧賜山しざんに禪師號を賜ふの勅(安政三年七月、孝明天皇紀)(二六)僧超譽ちょうよに國師號を賜ふの勅(安政四年閏五月、孝明天皇紀)(二七)僧陽關ようかんに禪師號を賜ふの勅(安政四年十一月、孝明天皇紀)(二八)僧俊嶺しゅんれいに禪師號を賜ふの勅(安政六年十月、孝明天皇紀)(二九)僧南海なんかいに禪師號を賜ふの勅(萬延元年閏三月、孝明天皇紀)(三〇)僧萬寧ばんねいに禪師號を賜ふの勅(萬延元年六月、孝明天皇紀)(三一)僧菊潭きくたんに禪師號を賜ふの勅(萬延元年八月、孝明天皇紀)(三二)僧空谷くうこくに禪師號を賜ふの勅(萬延元年九月、孝明天皇紀)(三三)圓光えんこう大師だいし加號かごうの勅(文久元年正月、孝明天皇紀)(三四)僧太元たいげんに禪師號を賜ふの勅(文久元年十月、孝明天皇紀)(三五)僧碓州たいしゅうに禪師號を賜ふの勅(文久二年三月、孝明天皇紀)(三六)僧直傳ちょくでんに禪師號を賜ふの勅(文久二年三月、孝明天皇紀)(三七)僧潤臾じゅんそうに禪師號を賜ふの勅(文久二年三月、孝明天皇紀)(三八)僧泰嶺たいれいに禪師號を賜ふの勅(文久二年五月、孝明天皇紀)(三九)僧雪堂せつどうに禪師號を賜ふの勅(文久三年二月、孝明天皇紀)(四〇)僧要峯ようほうに禪師號を賜ふの勅(文久三年二月、孝明天皇紀)

【大意謹述】おしえの道は自然と世の中にひろまるものではなく、そのおしえを熱心に信じ、獻身的けんしんてきに努力する人の手をつて始めて世にひろまるのである。一方さとる方の人にとつて、さとりは自然に開けるものではなく、必ずその人にさとらせるつてそののちさとることが出來るといふことをちんかつて聞いた。このてんから考へて見るのに、洛東らくとう吉水よしみずに居た源空げんくう和尙わしょうは、年少の時、叡山えいざんのぼつて天台宗てんだいしゅうを修め、當時とうじ山中に於ける第一の博學はくがくの名を取り、老年になつては吉水よしみずに居て道を熱心におしへ、佛道ぶつどう修業しゅぎょう名譽めいよが一そう高くなつた。源空げんくう敎戒きょうかいする淨土宗じょうどしゅう趣意しゅいすこぶ明瞭めいりょうで、そのひかりは昔から美玉びぎょくとして知られてゐる隨侯ずいこうたま和氏か したま以上であり、その積み蓄へられた知識のするどさは、これも名劔めいけんとして知られる干將かんしょう莫邪ばくやですらも驚いてぢ入る程である。他宗との論爭ろんそうでその內容が一そうはつきりして、淨土宗じょうどしゅうが最も容易に人々に信ぜられることを證明しょうめいし、このおしえの道こそほとけ眞意しんいを得た一番正しく優れてゐることを認めさせた。ここに至つて善人も惡人あくにんも、淨土宗じょうどしゅうを信仰して、永久に賢愚けんぐ區別くべつを去り、極樂ごくらく淨土じょうどを望んで、四方から黑谷くろだにに集つて來る。身分のとうといもの、いやしいものの區別くべつなく皆がこの宗にし、その影響は一世を風靡ふうびさせる力となり、僧侶そうりょも、神官しんかんですらも、この敎戒きょうかい心服しんぷくして、慈悲深い恩澤おんたくを無限に後世にまでつたへたのである。ああ、源空げんくう和尙わしょうのやうな人物こそ、ちんが先に述べた意味での道を世にひろめる偉人、人々に正しい道をさとらせる理想的なといへるであらう。朕以前に於いて、すでに江戸時代になつてからも三代の天皇が各々目出度め で た諡號しごうたもうてさかんにとくを世に示された。本年はその六百周忌しゅうきである。朕はこの際にあたつて更に弘覺こうかく大師だいし諡號しごうを加へ、その盛德せいとくよみしたい。

【備考】法然ほうねん淨土宗じょうどしゅうは、最澄さいちょう空海くうかい佛敎ぶっきょうにくらべて、一そう日本化され、また一そう純化たんじゅんかされ、全く平民のための宗敎しゅうきょうとしたところに、劃期的かっきてきな意義がある。れの宗敎は、より多く體驗たいけんの宗敎、實踐じっせんの宗敎である。れ自身は、理智り ちえを示した人であるが、一般信者に向つては、こちたき理論をひない、むづかしい理窟りくつかない。左樣そ うした理論のわづらしさから離れて、「誰でも稱名しょうみょう念佛ねんぶつせよ、必ず救はれる!」といふ實踐じっせん本位ほんいの宗敎で、只管ひたすら、他力にすがり、彌陀み だにすがり、自力・努力をひない。勿論もちろん、以上の考へは、大體だいたいにおいて、すで龍樹りゅうじゅ道綽どうしゃく善導ぜんどうらにより、かれたにはちがひないが、その傾向を推しひろめ、强調きょうちょうして、安易な成佛じょうぶつの道を開き、最もわかり易く、最も平易へいいに之をこうじたところに、法然ほうねん獨創どくそうの光がひらめく。

 親鸞しんらん日蓮にちれんの二大宗敎家が、そののちに出て、佛敎ぶっきょうを全く日本化してしまつたのは、法然ほうねんの影響と暗示とに負ふところが最も多い。こと親鸞しんらんは、全く法然ほうねんの指導によつて、淨土じょうど眞宗しんしゅうの一派を開き、萬民ばんみん救濟きゅうさい福音ふくいんひろく及ぼした。日蓮にちれん宗敎しゅうきょうまたその純化たんじゅんかにおいてわかりやす傳道でんどうした上において、法然ほうねんの歩いた道から、感得かんとくしたところがあらうと思ふ。以上の意味から考へると、法然ほうねん佛敎界ぶっきょうかいにおいて、おおいに表彰せられたのは、あまりにも當然とうぜんすぎることである。しかし陛下から御言葉みことばたまわつたれが、しそれを知つたなら地下に感泣かんきゅうしたであらう。

 この場合、一げん佛敎ぶっきょうの日本化といふことをいて置きたい。本來ほんらい佛敎ぶっきょうは、哲學的てつがくてき冥想的めいそうてきであり、理論的・推考的すいこうてき印度いんど產物さんぶつで、そこには多分の印度いんど民族趣味が加はつてゐる。その大乘敎だいじょうきょうなるものは、立派でよいとしても、小乘敎しょうじょうきょうには、厭世的えんせいてきな分子が多い。それに、全體ぜんたいを通じて、個人成佛じょうぶつといふことを主眼しゅがんとし、國家を眼中に置いてゐないところが幾分ある。國家への奉仕よりも、佛陀ぶっだへの奉仕を第一肝要事かんようじとする。このてんで、本來性ほんらいせいは、非國家的ひこっかてきであつて、超國境的ちょうこっきょうてきである。

 以上のてんが、日本の國民性にしつくりと合はない。げんにいへば、日本化された佛敎ぶっきょうとても、經文きょうもんそくしていふと、やはり非國家的なてんをいくらか持つてゐる。つ理論の詳細精密せいみつなことよりも、實踐じっせん實行じっこうを重んずる日本の國民性とも一致しかねるてんがある。この事は最澄さいちょう空海くうかい法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれんらの高僧こうそうつと氣付き づいたところであつた。

 佛敎ぶっきょうを日本國內に弘通ぐつうするには、どうしたらよいか。諸高僧こうそうらはこのてんに深く頭をなやましたのである。旣述きじゅつした本地ほんち垂迹すいじゃくせつなども、左樣そ うした方便ほうべんとして生れた。何らかの意味において、國民精神せいしん契合げいごうし、調和すべきてん把持は じしなくてはならない必要があつた。そこで空海くうかい最澄さいちょうらは鎭護ちんご國家こっかといふことを考へ出したのである。佛敎ぶっきょうの理論をこちたくくよりも、國家の平安・幸福こうふくいのる!ここ佛敎ぶっきょうの使命があるといふ風にき、當時とうじ道家しんどうか姑息こそくかたとちがつて、慈悲の精神せいしん如實にょじつあらはすところの社會しゃかい事業に努力し、文化運動のリイダアともなつた。佛敎ぶっきょうが日本化の第一歩を辿たどつたのは、かうしたところにある。非日本的な要素については、必ずしも講說こうぜつしないで、國家的といふ新しい傾向を佛敎ぶっきょうに添加した。かくして空海くうかい最澄さいちょう佛敎ぶっきょうは、日本でその勢力を伸ばしたのである。

 が、日本化といふことについて、更にこれを大衆的に考へたのは、法然ほうねん親鸞しんらん日蓮にちれんらの體驗たいけんだつた。貴族階級に向つては、鎭護ちんご國家こっかで、十分に理解されても、庶民階級には、何らかの意味で、卽身そくしん成佛じょうぶつの道を容易たやすく開くといふことを以てしなければならぬ。それには、正面から、むづかしい佛敎ぶっきょう理論をいたところで、もとより受容されない。左樣そ うした𢌞まわりくどい方法によるよりも、端的たんてきに、そのエツセンスをつかみ出して、大衆の感情に訴へる!左樣そ うした方法によることを近道だとした。法然ほうねん淨土宗じょうどしゅうはそこで、「南無阿彌陀佛なむあみだぶつ」の六字の唱名しょうみょうにより、卽身そくしん成佛じょうぶつ出來るといふ、極めてシムプルな道を開いた。理論も知らず、何も知らずとも、ただ六字の唱名しょうみょうさへすれば、すぐに成佛じょうぶつする。かうした簡易な、實踐的じっせんてきな方面に最も共鳴しやすいのが日本の國民性であつたから、法然ほうねんの開いた道は、佛敎ぶっきょう日本化の度合を深め、これを大衆の上に、普及する上に、少からぬ成功をおさめたのである。

 以上の傾向をもつとつよめ、深めたのは、親鸞しんらんだつた。親鸞しんらんくところは、法然ほうねんよりも、もつと切實せつじつであり、またするどいところを持つてゐた。れもまたむづかしい理窟りくつ拘泥こうでいしないで、成佛じょうぶつの道を平易にいた。ここに至ると佛敎ぶっきょうの日本化は、一そうその歩みを進めた形である。したがつて大衆を動かす上にも、效果こうかいちじるしいものがあつた。ただいずれかといへば、法然ほうねんといひ、その佛敎ぶっきょうにおける悲涼ひりょうおもむき除却じょきゃくすることが出來なかつたのには、多少の遺憾いかんなきを得ない。

 親鸞しんらんと同時代に出た日蓮にちれんは、大體だいたいにおいて、大衆的なかたをしたてんでは、親鸞しんらんことならない。ただ在來ざいらい法華宗ほっけしゅうの一ねん三千といふことを高調したのにたいして、の一ねん三千を力說りきせつした上に、一つの大きい光彩こうさいを放つた。の一ねん三千といふことをここくと、むづかしくなるから、差控さしひかへるが、要するに、國家的・現實的げんじつてきな方面を高調して、佛敎ぶっきょう空理くうり空論くうろんに流るるのへいを去り、すぐにその佛果ぶっか現實げんじつの上に反映するといふ意味をあきらかにしたのである。いひ換へると、法華經ほけきょう眞理しんりによつて、國家を成佛じょうぶつさせ、更に世界を善化ぜんかし、國家的にその作用を發揮はっきし、世界的にも働きかけるといふ、積極的な意義を發揚はつようしたのである。おそらく、國家主義を佛敎ぶっきょうの上に固く結び付けたことは、日蓮にちれんを以てその第一位に置かねばならぬと思ふ。

 在來ざいらい佛敎界ぶっきょうかいに於ける諸高僧こうそうも、佛敎を日本に結び付けることについて、いろいろ力をつくしたが、日蓮にちれんの如く積極的に作用しなかつた。けだ日蓮にちれんは、愛國の熱情に燃えた人で、つ日本國の優越性を十分、自覺じかくし、尊重した結果、法國ほうこく冥合みょうごう法華經ほけきょう眞理しんりと日本國との一致により、國家成佛じょうぶつを見るといふ考へに到達した、ここ佛敎ぶっきょうの日本化はそのきつくべき最奥さいおうのところにまで行進したといへよう。

 その他、佛敎ぶっきょう文化と日本國民生活との密接な關係かんけいも、當然とうぜん、考慮のうちに加へられるが、何とつても、如上にょじょう思想的方面に於ける日本化が、一番重要だつた。かうして、佛敎ぶっきょうは日本のものとなり、日本の佛敎ぶっきょうとなつた。そこに國民性にふさはしい調和と著色ちゃくしょくとを見たのである。

 かの佛敎徒ぶっきょうとの代表的人物、乃至ないし、これに次ぐ人々のうちには、社會しゃかい事業に力を注いだものが多い。大衆の生活をよりよくし、その利便をはかり、幸福こうふく企圖き とするてんにおいて、いろいろと心をつくし、それによつて社會しゃかい生活の向上にするところがあつたのはいちじるしい事實じじつである。ただ口先きばかりで法をくにとどまらず、そのくところを社會しゃかい生活の上にみ込ませて、佛敎ぶっきょうと大衆との密接な交渉・關係かんけいを作り、佛敎ぶっきょうの大衆化を實現じつげんしたのは、確かに、その著眼ちゃくがんの進んでゐたことを示す。かくして、佛敎ぶっきょうの日本化は、一そう徹底したものとなり、藝術げいじゅつ文學ぶんがくに建築・工藝こうげい佛敎ぶっきょう趣味の一般的なひろがりを見た。以上の如く、印度いんど支那し な佛敎ぶっきょうを全く日本のものとし、國民と歩調を合せてゆくことにつとめたてん佛敎ぶっきょうの勝利をもたらしたものと推測せられる。

 かの京都・奈良に遊ぶものは、そこに、佛敎ぶっきょう美術のすばらしい展開を見るであらう。その風致ふうちの上に、ながめの上に、一おもむきを添へてゐるのは、佛寺ぶつじ佛具ぶつぐである。この事を考へると、佛敎ぶっきょうがいかに深く日本人の藝術げいじゅつ生活と結び付いたかといふことが切實せつじつに思はれる。佛敎ぶっきょうの偉大な發展はってんはかうしたところにも一因を見出すのである。

46-8 國難の平定を祈るの宣命 伏見天皇(第九十二代)

國難こくなん平定へいていいのるの宣命せんみょう(第八段)(正德六年七月 公卿勅使參宮次第)

辭別申賜者久、殊思⻝事在、內外ニ宮正權禰宜以下、各賜一階。此旨令照察給、取祈勅願幽谷如應響、明鏡如寫象仁志氐、寶祚久長、玉體安穩護恤給倍止、恐美毛申賜者久止申。

【謹譯】辭別ことわきもうたまはく、ことおぼしめすことありて內外ないげのみや正權しょうごん禰宜ね ぎ以下い かに、おのおのかいたまふ。むね照察みとおしめたまひて、いのるの勅願ちょくがんは、幽谷ゆうこくひびきおうずるがごとく、明鏡めいきょうかたちうつすがごとくにして、寶祚ほうそ久長きゅうちょうに、玉體ぎゃくたい安穩あんのんまもめぐたまへと、かしこかしこみももうたまはくともうす。

【字句謹解】◯辭別て申し賜はく ことばを改めて特別に申し上げるとの意 ◯思しめす事 主上しゅじょう御考おかんがへなさることがあつて ◯正權禰宜 禰宜ね ぎとは本來ほんらい神主かんぬしもとにあつて、祈年としごい月次つきなみ新嘗にいなめなどの祭祀さいしあずかり、幣帛へいはくけんずる役であるが、後世は神職しんしょく總稱そうしょうとなつた。正權しょうごんはそのちょう次位じ いにある者 ◯一階を賜ふ 一級づつ地位を上げる ◯照察 かみが知りたまふ ◯幽谷の響に應ずるが如く 深い谷が木靈こだまを響かせるやうに大御神おおみかみ天皇御祈願ごきがんきこしめす ◯明鏡の象を寫すが如く 明鏡めいきょう萬物ばんぶつの姿をありのままにうつし出すやうに大御神おおみかみ天皇御心みこころを知りたまふこと。

【大意謹述】更にことばを改めて特に次のことを陛下の思召おぼしめしままに申し上げる、今囘こんかい天皇かせられては、叡慮えいりょもとに、內宮ないぐう外宮げぐう神職しんしょくの長官・次官の二にんに各々一級づつの位をたまふことになつた。大御神おおみかみにはこのよし御照覽ごしょうらんあそばされて、ここに願ひたてまつる事を、深い谷が大きな木靈こだまを響かせるやうに、明らかな鏡が萬物ばんぶつの姿をそのままに映すやうに、天皇御願おんねがい御心みこころを知られ、皇位こういが永久につづき、玉體ぎょくたい御安穩ごあんのんにましますやう御加護ご か ご御慈悲ご じ ひとを加へたまへと、この上もなく恐れつつしんで申し上げる。

46-7 國難の平定を祈るの宣命 伏見天皇(第九十二代)

國難こくなん平定へいていいのるの宣命せんみょう(第七段)(正德六年七月 公卿勅使參宮次第)

掛畏皇大神、此狀聞⻝、形兆未見災糵、兵戈未起逆亂比氐天皇朝廷、寶位無動常磐、夜守日守護幸奉給、天下淳樸、海內淸平、護恤給倍止美毛申賜者久止申。

【謹譯】けまくもかしこ皇大神すめらおおかみさまたいらけくやすらけくきこしめして、形兆けいちょういまえざるに災糵さいげつはらひ、兵戈へいかいまおこらざるに逆亂ぎゃくらんおさたまひて、天皇すめら朝廷みかどを、寶位ほういうごきなく常磐ときわに、夜守よ も日守ひ もりにまもさきわまつたまひて、天下てんか淳樸じゅんぼくに、海內かいだい淸平せいへいに、まもめぐたまへとかしこかしこみももうたまはくともうす。

【字句謹解】◯形兆未だ見えざるに 形兆けいちょうは「かたち」と訓讀くんどくするらしいが、ここの文章は全然漢文かんぶんとしての對句ついくになつてゐるので、無理に和訓わくんしなくとも差支さしつかえはないと思ふ。以下同然である。目に見える災害があらはれない以前にの意 ◯災糵 げつは切り株から出た新芽の事、災害の萌芽ほうがをいつたものである ◯兵戈未だ起らざるに げん戰亂せんらん勃發ぼっぱつしない以前に ◯撥ひ給ひて をさめ除くこと ◯天下淳樸に 天下中が質素で少しの贅澤ぜいたくもなく ◯海內淸平に 日本全土が安穩あんのんに治まること。

【大意謹述】くちに致すのも恐れ多い大御神おおみかみかせられては、げんに直面した國難こくなんをありのままに御理解あり、今申し上げた御詞おんことばをその通りに受入れられて、未だ形をとつて目に見えない以前に災害の種を打ちはらはれ、未だ戰亂せんらんの起らない以前に國を害する異國人いこくじんを一そうされて、帝室ていしつの地位を微動だもさせず、朝廷を永久に堅固けんごに、晝夜ちゅうや加護か ごれ、幸福こうふくあたへられ、結果に於いて天下のすべての方面が質素に、日本國中が平穩へいおんに治まるやう御慈悲ご じ ひたまへ、以上この上もなく恐れつつしんでおおせられる大御言おおみことを今ここに告げたてまつる。

46-6 國難の平定を祈るの宣命 伏見天皇(第九十二代)

國難こくなん平定へいていいのるの宣命せんみょう(第六段)(正德六年七月 公卿勅使參宮次第)

外宮仁者、御弓、御箭、御飾劍、御桙、御錦蓋、御鏡、御玉佩、御麻桶、御線柱、唐錦一段、唐綾一段、火取珠一顆、作花三枝、銀鳳一羽、雕馬一疋、右御馬一疋率副進給。又荒祭宮金銀獅子形各一頭進給。此外內外、銀劍各一柄進給

【謹譯】外宮げぐうには御弓おんゆみ御箭おんや御飾劍おんかざりのつるぎ御桙おんほこ御錦蓋おんきんがい御鏡おんかがみ御玉佩おんぎょくはい御麻桶おんあさおけ御線柱おんせんちゅう唐錦からにしきたん唐綾からあやたん火取珠ひとりたま作花さっか銀鳳ぎんぽう雕馬ちょうばぴきに、みぎ御馬おんうまぴきひきへてすすたまふ。また荒祭宮あらまつりのみや金銀きんぎん獅子形ししがたおのおのとうすすたまふ。ほか內外ないげみやに、銀劍ぎんのつるぎおのおのぺいへてすすたまふ。

【字句謹解】◯外宮 豐受大神とようけだいじんしょう ◯荒祭宮 皇大神こうたいじん荒魂あらみたまを祭る ◯金銀の獅子形 金銀で作つた獅子。

【大意謹述】外宮げぐう進獻しんけんする品々は、御弓おんゆみ御矢おんや御裝飾おんそうしょく太刀た ち御桙おんほこ御錦蓋おんきんがい御鏡おんかがみ御裝束おんしょうぞく御玉佩おんぎょくはい御麻桶おんあさおけ御線柱おんせんちゅう唐錦からにしきを一たん唐綾からあやを一たん火取珠ひとりだま・造花三銀造ぎんづくりの鳳鳥おおとり・彫刻された馬一匹に、その右にいます馬一匹をへられる。又、荒祭宮あらまつりのみやには金銀で鍍金めっきした獅子を各々一頭進獻しんけんし、この他にも內宮ないぐう外宮げぐうとには銀のつるぎを一本づつへてたてまつる。