51 元老院・大審院ヲ設置シ地方官ヲ召集スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

元老院げんろういん大審院たいしんいん設置せっち地方官ちほうかん召集しょうしゅうスルノ勅語ちょくご(明治八年四月十四日 太政官日誌)

【謹譯】ちん卽位そくいはじめしゅトシテ群臣ぐんしんかいシ、五もっ神明しんめいちかヒ、國是こくぜさだメ、萬民ばんみん保全ほぜんみちもとム。さいわい祖宗そそうれい群臣ぐんしんちからトニたよリ、もっ今日こんにち小康しょうこうタリ。かえりみルニ中興ちゅうこうあさク、內外ないがいことまさ振作しんさ更張こうちょうスヘキものすくなシトセス。ちんいま誓文せいもん擴充かくじゅうシ、ここ元老院ごんろういんもうケ、もっ立法りっぽうみなもとひろメ、大審院たいしんいんキ、もっ審判しんぱんけんかたクシ、また地方官ちほうかん召集しょうしゅうシ、もっ民情みんじょうつう公益こうえきはかリ、漸次ぜんじ國家こっか立憲りっけん政體せいたいテ、なんじ衆庶しゅうしょともけいよらントほっス。なんじ衆庶しゅうしょあるいきゅうなずルルことク、またあるいすすムニかるスニきゅうナルことク、ちんむねたいシテ翼賛よくさんスルところアレ。

【字句謹解】◯五事ヲ以テ神明ニ誓ヒ 五箇條かじょう御誓文ごせいもんおこなはせられた事。〔註一〕參照 ◯國是ヲ定メ くにとして今後進むべき方針を決定する ◯萬民保全ノ道 國民こくみん全部が生命財產ざいさんに心配なく各自のぎょうにいそしむべき手段 ◯祖宗ノ靈 御祖先ごそせん代々の天皇御靈みたま ◯小康 平和な時 ◯中興 衰へてゐた皇威こうい恢復かいふくすること。ここでは明治維新いしんを指す ◯振作更張 共に今までゆるんでゐたものを改めてふるおこし、緊張させる事 ◯擴充 押しひろめる ◯元老院 國家こっか功勞こうろうあり元老げんろうとなつた人々が集合して國事こくじ論議する場所。〔註二〕參照 ◯大審院 裁判所の最高位にあるもの ◯審判ノ權 裁判けんのこと ◯公益ヲ圖リ 一般國民の利益りえきを問題とし考慮こうりょする ◯立憲ノ政體 ここでは代議だいぎ政體せいたいの意 ◯其ノ慶ニ賴ント欲ス そのにあづからうとする ◯舊ニ泥ミ故ニ慣ルル ふるい習慣からだっし切れないで、新しいことをすべて嫌ふ意 ◯進ムニ輕ク爲スニ急ナル事 輕擧けいきょ盲動もうどうして愼重しんちょうな態度を忘れること ◯翼賛 賛成して補助する。

〔註一〕五事 五箇條かじょう御誓文ごせいもんとは、

一、ひろ會議かいぎおこし、萬機ばんき公論こうろんけっすべし。

一、上下しょうかこころを一にして、さかん經綸けいりんおこなふべし。

一、官武かんぶ庶民しょみんいたまでおのおのこころざしげ、人心じんしんをしてざらしめんことをようす。

一、舊來きゅうらい陋習ろうしゅうやぶり、天地てんち公道こうどうもとづくべし。

一、智識ちしき世界せかいもとめ、おおい皇基こうき振起しんきすべし。

のことで、その謹譯きんやく・意義に就いては『思想社會しゃかい篇』参照さんしょうのこと。

〔註二〕元老院 元老院げんろういんの設置は、前勅ぜんちょくの「議院憲法」と共に立憲りっけん政治への前驅ぜんくであつた。大久保おおくぼ利通としみち臺灣たいわん征伐せいばつ計畫けいかくするや、木戸き ど孝允こういん斷然だんぜんこれ反對はんたいして挂冠けいかんし、政府の實權じっけんは二三の長州人ちょうしゅうじんを除けば大久保を中心とした薩派さっぱの手にしたかんがあつた。ところが臺灣たいわん征伐せいばつ處理しょりに失敗するに及んで、政府の威信いしん失墜しっついさせ、民心みんしん益々ますます惡化あっかする傾向があつた。この時に在野ざいや井上馨いのうえかおる在朝ざいちょう伊藤いとう博文ひろぶみとが大久保・木戸・板垣などの妥協提携を持ち出し、三者の了解を得て、八年一月に所謂いわゆる「大阪會議かいぎ」が開かれ、

(一)政府の二三權力けんりょくを持たせることを避け、元老院げんろういんを設けて立法上の手續てつづき鄭重ていちょうにし、他日たじつ國會こっかいおこす時の準備をすること。(二)裁判の基礎を鞏固きょうこにし、司法けん獨立どくりつを確保する必要上、大審院たいしんいんを設けること。(三)上下の民情みんじょう疎通そつうするため、地方長官會議かいぎ召集しょうしゅうすること。(四)參議省卿さんぎしょうきょうを分離し、參議さんぎは內閣につて君主輔弼ほひつの責にあたらしめ、省卿しょうきょうは行政事務を取扱はせること。

條件じょうけんとして三者は握手した。板垣は同志の後藤ごとう象二郞しょうじろう元老院げんろういん副議長に推薦し、島津しまづ久光ひさみつ左大臣となり、熾仁たるひと親王しんのうを議長にほうじ、ここに本勅ほんちょくが下されたのである。

〔注意〕本勅ほんちょくつて開かられた元老院げんろういんかんしては、の如き勅語ちょくごがある。

(一)元老院げんろういん開院式かいいんしき勅語ちょくご(明治八年七月五日、太政官日誌)(二)元老院げんろういん議長熾仁たるひと親王しんのう國憲こっけん起草きそうヲ命スルノ勅語(明治九年九月六日、三條實美公年譜)

がある。その閉院へいいんしたのは帝國ていこく議會ぎかい開會かいかいの明治二十三年で、その際、みことのりはっせられた。

(三)元老院げんろういん閉院へいいん詔勅しょうちょく(明治二十三年十月二十日、官報

【大意謹述】ちんは、卽位そくいの始め、群臣ぐんしんかいして五箇條かじょうかみ御前みまえに誓ひ、將來しょうらい國家こっか方針を決定して、國民こくみんが何の不安もなくおのおのぎょうはげむべき方法を採つた。さいわひにして我が皇室の御先祖ごせんぞ御威靈ごいれいと、諸臣しょしんの努力とを以て、今日こんにちの平和を得たのである。しかかえりみれば王政おうせい復古ふっこ號令ごうれい以來いらいいまあさく、內外多事た じ、一そう緊張しておおいに政治を振興しんこうしなければならぬ。ちんここに五箇條かじょう神前しんぜんに誓つた意味をひろく押しひろめて、今囘こんかいあらた元老院げんろういんを設け、それによっ國法こくほうの基礎を鞏固きょうこにし、一方大審院たいしんいんを置いて國家の裁判けんを確立し、更に地方官を定期に集めて、國民の政府にたいする希望を上達じょうたつせしめ、一般の利益りえきを考慮し、一歩づつ次第に代議制度に近付き、汝等なんじら諸臣しょしん及び全國民と共にその利にあづからうと考へる。諸臣しょしん及び一般國民はいたずら舊習きゅうしゅうからだっし切らないで新しい設備を嫌ふことなく、又輕擧けいきょ盲動もうどうして漸進ぜんしんを忘れることなく、中庸ちゅうようの道を進むちん趣意しゅいく了解し、今囘こんかい兩院りょういんの設置目的に賛成して、それを效果こうかあらしめるやう協力せよ。

【備考】當時とうじ上述じょうじゅつの大阪會議かいぎで、木戸き ど孝允こういんみずから筆を執つて畫定かくていした改革案を圖表ずひょうあらはしたものがる。それは左の如きものであつた。

天皇陛下―(左・右)內閣太政大臣―(上)元老院げんろういん大審院たいしんいん・行政―(下)地方官

 以上の趣旨がのち具體化ぐたいかされ、左右兩院りょういんをやめて、元老げんろう大審たいしん二院の設置を見た。當時とうじ元老院げんろういん議員官となつた最初の人々は、

かつ 安芳やすよし・山口尙芳なおよし鳥尾とりお小彌太こ や た・三浦梧樓ごろう・津田 いづる河野こうの敏鎌としかま・加藤弘之ひろゆき・後藤象二郞しょうじろう由利ゆ り公正きみまさ福岡ふくおか孝弟こうてい陸奥む つ宗光むねみつ・松岡時敏ときとし副島そえじま種臣たねおみ・吉井友實ともざね

らで、第二囘目かいめに任命せられたのは、

熾仁たるひと親王しんのう柳原やなぎはら前光さきみつ・佐野常民つねたみ黑田くろだ淸綱きよつな長谷は せ信篤のぶあつ大給おおぎゅう つね壬生み ぶ基修もとのぶ秋月あきづき種樹たねき・佐々木高行たかゆき齋藤さいとう利行としゆき

らの人々である。以上のうちかつ副島そえじま福岡ふくおかの三人は議官の任を拜辭はいじしたとつたへられる。その開院せられたのは、八年七月五日だつた。

50 議院憲法ヲ地方長官ニ頒示セラレシ時ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

議院ぎいん憲法けんぽう地方長官ちほうちょうかん頒示はんじセラレシとき勅語ちょくご(明治七年五月二日 太政官日誌)

【謹譯】ちん踐祚せんそはじめ神明しんめいちかヒシ旨意し いもとづキ、漸次ぜんじこれ擴充かくじゅうシ、全國ぜんこく人民じんみん代議人だいぎにん召集しょうしゅうシ、公議こうぎ輿論よろんもっ律法りっぽうさだメ、上下じょうげ協和きょうわ民情みんじょう暢達ちょうたつみちひらキ、全國民ぜんこくみんヲシテおのおのぎょうやすんシ、もっ國家こっかおもき擔任たんにんスヘキノ義務ぎ むアルヲラシメンこと期望きぼうス。ゆえ地方ちほう長官ちょうかん召集しょうしゅうシ、人民じんみんかわっ協同きょうどう公議こうぎセシム。すなわ議院ぎいん憲法けんぽう頒示はんじス。各員かくいんこれ遵守じゅんしゅセヨ。

【字句謹解】◯踐祚ノ初 卽位そくいはじめのこと ◯神明ニ誓ヒシ旨意 天神てんじん地祇ち ぎに誓つた內容。〔註一〕參照 ◯擴充 『孟子もうし』に見える有名な語で、おしひろげて十分に滿みたす意 ◯代議人 國民に代つてその意志を代表する者、後代の代議士にあたるが、本勅ほんちょくはいする如く地方長官がこの役に就いたので選擧せんきょつたのではない ◯輿論 國民の總意そうい ◯民情暢達ノ路 國民の氣持きもちが一國全部にのび達する方法。〔註二〕參照 ◯國家ノ重 國家こっか發展はってん上の一部分の責任 ◯擔任 責任を持つ。

〔註一〕神明ニ誓ヒシ旨意 御卽位ごそくい當初とうしょ神明しんめいに誓はれた內容とは、明治元年三月十四日の有名な『五箇條かじょう御誓文ごせいもん』中「ひろ會議かいぎおこ萬機ばんき公論こうろんに決すべし」を指したもうたので、代議制度の完成されたものとしての議會ぎかい開設の下準備として本勅ほんちょくくだつたのであつた。

〔註二〕民情ノ暢達 征韓せいかんの主張に敗れた人々のうちことこころざしと違つた江藤えとう新平しんぺいは七年一月ちゅうふくし、西郷さいごう隆盛たかもり薩南さつなんかえり、板垣いたがき退助たいすけは自由民權みんけんの旗のもとに七年一月『民選みんせん議院設立の建白けんぱく』をして愛國あいこく公黨こうとう及びその後身こうしんたる立志社りっししゃを組織した。右、建白けんぱくの一節には「臣等しんらして方今ほうこん政權せいけんする所を察するに、かみ帝室ていしつらず、しも、人民にらず。しかしてひと有司ゆうしせり、有司ゆうしかみ帝室ていしつとうとぶとはざるにあらず、しかして帝室ていしつようや尊榮そんえいうしなふ。しも、人民をたもつとはざるにあらず。しかして政令せいれいたんにして朝令暮改ちょうれいぼかい云々うんぬんとあつた。ちょうに於いては長閥ちょうばつの代表者木戸き ど孝允こういん薩閥さつばつ大久保おおくぼ利通としみちとが對立たいりつした結果、木戸は板垣より一歩以前に憲法制定・國會こっかい開設を建議けんぎし、大久保は主として民心みんしんを外部に發散はっさんさせるために臺灣たいわん征伐せいばつ計畫けいかくした。はばこの議院憲法は、御誓文ごせいもんを中心に板垣らの建白けんぱくと木戸の立憲りっけん思想とから生じたので、結果に於いては木戸孝允の議長のもとに地方官會議かいぎとして終つたが、民選議院設立の前驅ぜんくとしての價値か ちはあつた。ほ十一年四月、第二かい地方官會議かいぎがあり、十三年二月に第三かいが開かれ、爾來じらい每年まいねんかい必ず開かれる事となり、今日こんにちに及んでゐる。

〔注意〕本勅ほんちょく關係かんけいある諸勅語ちょくごの如くである。

(一)地方官會議かいぎヲ開クノ勅語ちょくご(明治八年六月二十日、岩倉公實記)(二)地方官會議かいぎ議院ニ下シ給ヘル勅語(明治八年六月二十日)(三)地方官會議かいぎ閉會式へいかいしき勅語(明治八年七月十七日、岩倉公實記)

岩倉公いわくらこう實記じっき』には、本勅ほんちょくと同文のみことのりが明治八年六月十四日に再びくだされたよしを記してある。

【大意謹述】ちん卽位そくい當初とうしょ天神てんじん地祇ち ぎに誓つた內容を基礎として、次第にそれを押しひろめ、全國民こくみんの意志を代表する人物を各地から召し集め、國民の總意そういを中心として、諸種しょしゅ立法りっぽうを制定し、上下が一致協力して、全國民のかんがえかみに達するの方法を開きたいとねて思考した。以上の方法により國民が安堵あんどして各目めいめいの職業にしたがひ、國家こっか發展はってん上について一部分の責任を持つ義務のあることを知らしめん事を希望する。

 如上にょじょうの目的のもとに、それに達する第一歩として今囘こんかい、地方長官を召集しょうしゅうし、國民の利害を代表させて、共に國政こくせいを論ぜしめることとし、それにかんした規定を公布こうふする。各大臣及び地方長官は、この趣旨を十分に理解して守つてほしい。

49 地租改正ノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

地租ち そ改正かいせい勅語ちょくご(明治六年七月二十八日 太政官日誌)

【謹譯】ちんおもフニ、租稅そぜいくに大事だいじ人民じんみん休戚きゅうせきかかところナリ。從前じゅうぜんほう一ナラス、寬苛かんか輕重けいちょうおおむへいス。よっこれ改正かいせいセントほっシ、すなわ所司しょし群議ぐんぎリ、地方官ちほうかん衆論しゅうろんつくシ、さら內閣ないかく諸臣しょしん辯論べんろん裁定さいていシ、これ公平こうへいかく一ニセシメ、地租ち そ改正法かいせいほう頒布はんぷス。庶希こいねがわく厚薄こうはくへいナク、たみ勞逸ろういつへんナカラシメヨ。主者つかさどるもの奉行ぶぎょうセヨ。

【字句謹解】◯休戚 喜憂きゆうの意 ◯從前其ノ法一ナラス 今までは地租ち その基準が確定せず、現物げんぶつ納稅のうぜいもあり豐凶ほうきょうによつて變化へんかがあつたこと。なほ〔註一〕參照 ◯寬苛 寬大かんだいな部分もあり嚴格げんかくな場所もあつたこと ◯所司 その方面を專門せんもんとする役人 ◯辯論裁定 論じ合つて採りきめる ◯公平畫一 地による區別くべつなく全部同一な方法のもと租稅そぜいを集めること。これは金納きんのう・法定地價ち かの千分の三に一定した意 ◯ 地租ち そのこと ◯勞逸の偏 苦勞くろうするたみ安樂あんらくするたみとの區別くべつがないやうにとおおせられたのである ◯主者 その方面の役人 ◯奉行 實施じっしする。

〔註一〕從前其ノ法一ナラス 明治維新いしんの結果、財政方面も中央集權しゅうけんとなり、全國の租稅そぜい國庫こっこおさめるやうになると、地租ち そすなわち主として田租でんそ國家こっか收入しゅうにゅうの大部分を占める事になつた。明治元年歲計さいけいを見ると、租稅そぜい收入しゅうにゅう總額そうがくは三百六十萬圓まんえんで、そのうち地租ち そが二百萬圓まんえんを占め、海關稅かいかんぜい開市港場かいしこうじょう諸稅しょぜい運上うんじょう冥加みょうがなどの諸稅しょぜいであつた。明治六年度の租稅そぜい收入しゅうにゅうは、六千五百萬圓まんえん、同期の歲出さいしゅつは六千二百萬圓まんえんであり、地租ち そ收入しゅうにゅうは六千萬圓まんえんであることを考へれば、地租ち その財政上に占める地位が判明する。

 明治初年に於ける地租ち そ金納きんのう物納ぶつのうとに分かれ、田畑でんばたぜいは米・大豆などの所謂いわゆる現物げんぶつ納稅のうぜいであつた。明治五年二月に地券ちけん發行はっこうし、地租ち そ收納しゅうのう規則を發布はっぷし、六年七月に本勅ほんちょくはっして地租ち そ改正條例じょうれい及び施行しこう規則を制定した。これは我國わがくに地租ち そ法規ほうき上に於ける重大な改正である。

(一)今まで田租でんそとしての現物げんぶつ(米納)をすべ金納きんのうにした事。(二)課稅かぜいの標準を、從來じゅうらい收穫しゅうかく(土地の石高)を基礎とし時に豐凶ほうきょうにより變化へんかしたのをはいし、今後は土地の原價げんか(法定價格)を標準とした事。(三)課稅かぜい程度を地價ち か百分の三とした事。

右の三特徵とくちょうがあつた。

 更に明治八年三月第百三十三 ごう布告ふこくで、市街地地租ち そ地價ち かの百分の三を稅率ぜいりつとし、十三種の新稅しんぜいを設け、舊幕きゅうばく時代から行はれた諸雜稅ざつぜいはいした。なほ『減租げんそ勅語ちょくご』(明治十年一月四日、三條實美公年譜)は本勅ほんちょくと直接關係かんけいを持つものとして注目される。(『思想社會篇』参照)

【大意謹述】かえりみるに、租稅そぜい國家こっかの重大事であるのみでなく、國民の喜憂きゆうに直接關係かんけいする所である。しかるに過去に於いての方法はかく一でなく、寬大かんだいな場所、苛酷かこくな地方、重い場合、かるい部分とふ具合にほとんど平均のよろしきを得てゐない。ゆえちんはこのてんを改正しようと考へ、その方面の役人の意見をちょうし、つ各地方官の考へをも聞き、內閣に於ける諸大臣と共に協議して最後案を決定した。すなわち全國に向つて公平に稅率ぜいりつを定め、ここ地租ち そ改正法を實施じっしする。ちんは國民がこの規定を十分守ることにつて、地租ち そについての不平なく、國民が場所によつて苦勞くろうする者と安樂あんらくする者との區別くべつを生じないやう希望する。かかりの役人はこのむねしたがつて施行しこうしなければならない。

【備考】明治十八年、內閣制度の變更へんこうせられる迄、明治天皇みずからは寸土すんどゆうたまはず、功臣こうしんにのみ土地をあたへられた。十八年の時、それは恐れ多いといふので、全國官有林かんゆうりんいて、皇室財產ざいさんとしたのである。こんな具合で、明治天皇は、只管ひたすら愛民あいみんの一てん大御心おおみこころを注がれた。田租でんそ改正の如きも、矢張やはり、愛民の御思召おんおぼしめしによる。

 田租でんそ改正については、明治三年、神田かんだ孝平こうへい建議けんぎし、翌四年、大久保おおくぼ利通としみちたてまつり、五年、神奈川かながわ縣令けんれい陸奥む つ宗光むねみつまた田稅でんぜいを改正すべき意見を捧呈ほうていした。陸奥む つは、主として

(一)在來ざいらい石高こくだか反別はんべつ石盛こくもり免檢地めんけんち檢見け みとう一切の舊法きゅうほうをやめ、現在の田畑でんばた實價じっかによつて、その幾分いくぶん課稅かぜいし、年期ねんきを定めて、地租ち そとすべき事。(二)在來ざいらいの上・中・下でんしょうこん一し、ただその土地の良否りょうひ肥瘠ひせきについて眞價しんかを定め、そのあたいよっ稅額ぜいがくを定めること。

建議けんぎしたのである。ここに至つて、陸奥む つの意見はれられ、租稅頭そぜいのかみに任命され、地租ち そ改正の事業に從事じゅうじしたのである。その結果出來たのが地租ち そ改正條例じょうれいだつた。

48 三條實美ニ國費節約ヲ仰セラレシ勅諭 明治天皇(第百二十二代)

じょう實美さねとみ國費こくひ節約せつやくおおセラレシ勅諭ちょくゆ(明治六年五月 太政官日誌)

【謹譯】ちん前日ぜんじつ囘祿かいろくわざわいヒ、宮殿きゅうでんこれため蕩盡とうじんストいえどモ、いま國用こくよう夥多か たときさいシ、造築ぞうちくこともとヨリこれすみやかニスルヲねがハス。ちん居室きょしつため民產みんさんそんシ、黎庶れいしょくるしマシムルコトなかルヘシ。なんじ實美さねとみたいセヨ。

【字句謹解】◯囘祿ノ災 囘祿かいろくは『左傳さでん』にある語で火のかみのこと。てんじて火災の義となる ◯蕩盡 跡方あとかたもなく失はれること ◯國用夥多ノ時 多方面に國家こっかとしての出費が非常に多い時 ◯之ヲ丞ニスルヲ希ハス これ國費こくひを指す。すみやかにするはすみやかにするに同じ ◯朕カ居室 宮城きゅうじょうのこと ◯民產ヲ損シ 人民の資財 ◯黎庶 一般國民のこと。

【大意謹述】先日、火災のために宮殿が跡方あとかたもなくけ失せたが、現在、諸方面に國費こくひ支出が非常に多く重なつてゐる時、宮殿の造築に國費を使用するのをちんは元より望まないと同時にこれを速かにする必要もない。ゆえちんの平常る場所を作るため、國民の資財を損じ、一般臣民しんみんを苦しめてはならない。なんじ實美さねとみよ。ちんの意を了解して適當てきとう處理しょりせよ。

【備考】本勅ほんちょくにある通り、明治天皇當時とうじ皇居新築を見合はしたまひ、明治二十二年一月迄、赤坂あかさか離宮りきゅうかり皇居として御起臥ご き がなされた。赤坂離宮は、昔の紀州きしゅう德川とくがわ家の邸宅ていたくで、相當そうとう立派ではあるが、皇居としては手狹てぜまであるので、後、增築ぞうちくされた。これより先、當局とうきょくでは、明治十六年七月、皇居造營ぞうえいの事に決し、豫算よさん八百萬圓まんえん豫備よ び費二百萬圓まんえん和洋わよう折衷せっちゅうの建築をむね奏上そうじょうすると、明治天皇は、「そんな大規模の宮殿を作るに及ばぬ。また西洋かんようがない。よって二百五十萬圓まんえんと限定して、全部日本てとし、質素第一とせよ」とおおせられた。それで皇居御造營係ごぞうえいがかりでは、右の叡旨えいしほうじて皇居建築に著手ちゃくしゅしたのである。

 のち伊藤いとう博文ひろぶみ宮內卿くないきょうとなつた時、「現在のやうではあまりに規模が小さく、工事を進める上にも具合がわるうございます」と申上げ、ようやく御許可を得て百四十萬圓まんえん增額ぞうがくし、年限ねんげんを短縮して完成した。それが今の宮城きゅうじょう(改築前の宮內省を含む)である。ここ恐懼きょうくへぬのは、明治天皇が日常御起臥ご き がになる奥御殿おくごてんの極めて質素な一だ。そこには何の裝飾そうしょくもなく、普通人民の住居すまいの如く、質素である。明治天皇如何い かを以て質素のはんを示されたかが拜察はいさつされる。

47 琉球藩王ヲ封スルノ勅語 明治天皇(第百二十二代)

琉球りゅうきゅう藩王はんおうほうスルノ勅語ちょくご(明治五年九月十四日 太政官日誌)

【謹譯】ちん上天じょうてん景命けいめいあたリ、萬世ばんせいけい帝祚ていそキ、はるかニ四かいたもチ、八こう君臨くんりんス。いま琉球りゅうきゅうちか南服なんぷくリ。氣類きるいあいおなじク、言文げんぶんことナルナク、世々よ よ薩摩さつま附庸ふようタリ。しかシテなんじ尙泰しょうたい勤誠きんせいいたス。よろし顯爵けんしゃくあたフヘシ。のぼシテ琉球りゅうきゅう藩主はんしゅシ、じょシテ華族かぞくれっス。ああなんじ尙泰しょうたい藩屏はんぺいにんおもんシ、衆庶しゅうしょうえチ、せつちんたいシテ、なが皇室こうしつタレ。つつしよや

【字句謹解】◯琉球 薩摩さつまの南方にある群島の總稱そうしょうで、西は福建州ふっけんしゅう・西南は臺灣島たいわんとう・東西は太平洋につらなつてゐる。本島は沖繩島おきなわとうである。〔註一〕參照 ◯上天ノ景命ニ膺リ 高天原たかまのはらにまします天照大御神あまてらすおおみかみ勅命ちょくめいを受けての意。景命けいめいとは大命たいめい大きくあきらかな勅命ちょくめいのことである ◯帝祚 皇位こういの事 ◯奄ニ四海ヲ有チ 日本全國を所有する意。四かいは全世界のことであるが、この場合は全日本のことになる ◯八荒ニ君臨ス 八こうはこれも全世界のこと。日本にきみとして臨む意 ◯南服ニ在リ 南方にあつて日本と近く存在する ◯氣類相同ク 陰陽いんようの調和が等しい。つまり氣候きこう產物さんぶつが同じ ◯文殊ナルナク 言語・風俗が相違そういしてゐない意、ぶんしつたいしたもので、萬事ばんじかざりをいふ ◯附庸 しんとしての資格で奉仕する者 ◯勤誠ヲ致ス 忠實ちゅうじつしたがつた。みことのりにはかくあるが事實じじつ琉球りゅうきゅう日支にっし兩屬りょうぞくの姿でゐた事がある ◯顯爵 名譽めいよある爵位しゃくい ◯藩屏 皇室を守護するもの ◯皇室ニ輔タレ 皇室を助けよ ◯欽メ哉 この句は大體だいたい書經しょきょう』にある形式にったので、「つつしよや」はすなわちそれである。「つつしよや」は「うやうやしくつつしんでつとめよ」といふ程の意。

〔註一〕琉球りゅうきゅう群島ぐんとうと我が國との最初の交渉は、推古すいこ天皇二十年に掖玖や くじん歸化き かしたことに始まる。その後史上しじょうに有名なのは源爲朝みなもとのためもと琉球りゅうきゅう征伐せいばつで、しゅん天王てんおう英祖王えいそおう山南王さんなんおう山北王さんほくおう中山王ちゅうさんおう巴志は しおう尙氏しょうしが立ち、江戸時代には薩藩さつまぞくしつつも形式上ははん獨立國どくりつこくあるい日支にっし兩屬りょうぞくの姿をしてゐた。ゆえ嘉永かえい六年に我が太平の夢を驚かせたペリイは琉球りゅうきゅう和親わしん條約じょうやく締結ていけつし、フランス・オランダも同樣どうよう條約じょうやく締結ていけつのことがあつた。明治維新いしん後は四年に薩摩さつま所轄しょかつを離れて鹿兒島かごしまけんぞくせしめ、五年九月には本勅ほんちょくによつて一おあんとしての面目めんもくたもたしめ、尙泰しょうたい藩主はんしゅとして華族かぞくの列に加へた。かつてアメリカ・フランス・オランダと締結ていけつした條約じょうやくは、政府の約條やくじょうとして外務省が管理する事になつた。八年には淸國しんこくへの入貢にゅうこうを禁じ、十二年にははんはいして沖繩縣おきなわけんとし、尙泰しょうたいに上京を命じて、けん知事を派遣し、これを統治させた。

〔注意〕琉球りゅうきゅうかんしては本勅ほんちょく以外に、

(一)琉球りゅうきゅう藩王はんおう尙泰しょうたいニ下シ給ヘル勅語ちょくご(明治五年九月十四日、太政官日誌)(二)琉球藩りゅうきゅうはん使臣ししんニ下シ給ヘル勅語(明治五年九月十四日、太政官日誌)(三)琉球藩りゅうきゅうはんはい藩主はんしゅヲ東京ニ移サシムルノ勅語(明治十二年三月八日、岩倉公實記)がある。

【大意謹述】ちん高天原たかまのはらにまします天照大御神あまてらすおおみかみ大命たいめいを受けて、萬世ばんせいけい皇位こういき、日本全土を所有して、八方の隅々すみずみまでをもしたしく統治してゐる。今、みことのりを下す琉球りゅうきゅうは、我が南方の海上かいじょう近くに存在し、氣候きこう產物さんぶつも同じで、言語・風俗などもことならない。代々薩摩さつま島津しまづ家に臣屬しんぞくし、王政おうせい復古ふっこの時代となつてからはなんじ尙泰しょうたいは新政府にたいして忠實ちゅうじつしたがつたので、名譽めいよある榮爵えいしゃくさずけたいと思ふ。よって今、琉球りゅうきゅう鹿兒島かごしま縣下けんかから獨立どくりつさせて一ぱんとし、なんじ藩主はんしゅの地位に就け、華族かぞくの列に加へることにした。ああ尙泰しょうたいよ。今後は朝廷の守護としての責任を重んじ、國民の上に立つて、ちん精神せいしんを十分に理解し、永久に皇室に忠誠ちゅうせいであつてほしい。うやうやしくつつしみてつとめよ。

【備考】琉球りゅうきゅうは日本に取つて、國防上こくぼうじょう重要な地點ちてんで、アメリカの如きは東洋に於ける根據地こんきょちとして、これを占領しようとくわだてたことさへあつた。ひとり、アメリカのみならず、イギリスその他も、この地に向つて、野心をいだいたのである。以上の意味で、琉球りゅうきゅうを日本治下ち かに置くことは、國防上こくぼうじょう最も必要なことだつた。明治の政府はここに考へ及び、琉球りゅうきゅう國主こくしゅ招撫しょうぶして、完全に日本の所屬しょぞくとしたのである。